今日、5月29日は『アッツ島玉砕』があった日です。
日本軍の想像を遥かに上回るアメリカ兵12,000人が上陸作戦を開始したのです。対する日本軍は約2,600人。
しかし、この戦いでの日本軍の活躍は目覚ましく、一部の戦いではアメリカ軍を圧倒し、後退させたことさえあった程でした。
実はこうした日本軍の活躍の裏には、援軍部隊の到着まで持ちこたえれば、この戦いに勝利出来るという希望があったのです。
この増援部隊の派遣は、札幌北方軍司令部の樋口季一郎陸軍中将の発案により、大本営からの正式な許可も出ていた決定であり、この増援だけがアッツ防衛隊の光明だったのです。
しかしながら、この望みは虚しく潰えることとなります。
大本営より増援の派遣を中止するとの連絡が入ったのです。
それでもアッツ島の日本兵たちは果敢に戦い続けますが、圧倒的な兵力の差には逆らいきれず、徐々に追い込まれて行きました。
そして遂に、その日がやって来ます。
1943年5月29日、生き残った山崎部隊長以下、約300名の兵士たちは、これより突撃するとの最後の打電を残し、まともな武器さえ持たない状態で、敵陣に突撃を試みたのです。
生き残った者は僅か28名。
その生存率1%以下と言う、文字通りの玉砕戦となったのです。
アッツ島に取り残された山崎部隊長と、救援の断念を伝える樋口陸軍中将の通信がしっかり記録に残っています。
援軍は送れないと言った樋口中将に対する、山崎部隊長の返答は下記のようなものでした。
「戦さする身、生死はもとより問題ではない。
守地よりの撤退、将兵の望むところではない。
戦局全般の重要拠点たるこの島を、力及ばずして敵手に委ねるにいたるとすれば、罪は万死に値すべし。 (中略)
もし将来、この種の戦闘の教訓として、いささかでもお役に立てば、望外の幸である。
その期いたらば、将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」
つまり、
戦争をする以上、死ぬのは覚悟している。
撤退は望むとこではない。
重要拠点のこの島を敵に渡すことこそ罪なのだ。
これからは援軍を待つのではなく、攻撃のみに切り替え、敵に少しでも損害を与えようと思う。
そしてこれからの連絡は、敵がどんな戦法をとって来たか、それにどう備えるべきかに重点を置くことにするから、今後の戦い方の参考にして欲しい。
そして時が来たなら、全軍一丸となって突撃し、その霊はこれからも祖国を守り続けます。
と言っているのです。
援軍を送れない軍に対して、文句一つ言わないどころか、自分たちの戦い方を参考にしてくれといっているのです。
そして山崎部隊長はこの通信で宣言した通り、300名の兵を連れてアメリカ軍に突撃を果たすこととなります。
山崎部隊長は、今日までよくぞ戦ってくれたと、一人ひとりの兵をねぎらいました。
次に、通信兵に「機密書類全部焼却、これにて無線機破壊処分す」と大本営への打電を命じました。
そして「いざ!」と声をかけると、山崎部隊長は右手に抜き放った軍刀を、左手に日の丸を持ちました。
このとき、先頭にいた山崎部隊長は、振り返ると、みんなにニッコリと笑顔を向けたそうです。
そして山の斜面を駆け上りました。
生き残った全員があとに続きました。
死ぬ、とわかって、最後の特攻攻撃を行ったのです。
この突撃は、まさに鬼神とみまごうばかりのものでした。
米軍は大混乱に陥り、日本軍は、次々と米軍陣地を突破したのです。
そしてついに米軍上陸部隊の本部にまで肉薄しました。
あと一歩で上陸部隊の本陣を抜くところまで、迫りました。
しかし、ここまできたとき、ようやく体勢を整えた米軍が、火力にものをいわせて、猛然と機銃で反撃に出ました。
味方の兵が、バタバタと倒れました。
そして部隊長以下、全員が散華されました。
戦いが終わった後、累々と横たわる我が軍の遺体の一番先頭に、山崎部隊長のご遺体がありました。
これは米軍が確認した事実です。
山崎部隊長は、突撃攻撃の最初から、先頭にいました。
先頭は、いちばん弾を受けます。
おそらく山崎大佐は、途中で何発も銃弾を受け、倒れられたことでしょう。
けれど彼は、
撃たれては立ち上がり、
また撃たれては立ち上がり、
そしてついに、味方の兵が全員玉砕したときにも、
瀕死の体を引きずって、山崎部隊長は、攻撃隊の先頭にまで這い出たのでしょう。
そして、そこでこときれたのです。
享年51歳でした。
山崎部隊長以下の奮戦について、米軍戦史は、
山崎部隊長を「稀代の作戦家」と讃えています。
==アメリカ側の記録==
300〜400名が一団となって近づいてくる。
先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。
どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。
手に銃のないものは短剣を握っている。
最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。
足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。
わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。
また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。
また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。
こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。
遂にわが砲火が集中された…」
==以上がアメリカ側の記録==
後年行われた発掘調査で、突撃した日本軍の先頭に山崎部隊長の遺品と遺骨が発見され、この壮絶な突撃が事実であったことが証明されました。
これがアッツ島玉砕です。
戦争という狂った状況の中でも、彼らは決して日本人の誇りを失っていなかったのです。
最後に、アッツ島生存者の言葉を記させて頂きます。
『私はもう、二度と戦争はしたくない。
でも、もし国土を侵されるようなことかあれば、また何時でも武器を取るつもりだ』。
彼らが残したこの言葉の意味を、しっかりと噛み締めて頂きたい。
あなたはこの壮絶な戦いで亡くなっていった方々の魂を、国に捨てられた哀れな亡霊だと思いますか?
それとも、祖国のために身を挺して戦い、散っていった偉大な英霊たちとして手を合わせますか?
極寒の地・アッツ島の戦いで玉砕された約2,600名の方々は、何も語ることが出来ません。
それを決めるのは、彼らに命を繋いで頂いたあなた自身なのです。

(追加)
≪アッツ桜≫
写真の花は「アッツ桜」といいます。
ちょうど今頃の季節に咲く花です。
この花は、本当の名前はロードヒポキシスで、原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原です。
原産地は、アッツ島ではありません。
「アッツ桜」という名は、日本でだけ、そう呼ばれている花です。
なぜこの花が日本で「アッツ桜」と呼ばれているのか。
アッツ島で、立派に戦い、勇敢に散って行かれた日本人がいて、その死を悼んだ園芸店主がいて、この花に「アッツ桜」と名前をつけました。
その名前に、何かをちゃんと感じてくれる人たちがいて、そして70年経った今でも、この花は日本では、「アッツ桜」と呼ばれているのです。
戦後、日本政府は、アッツ島をはじめ、外地で国のために戦い、散って行かれた幾多の亡骸を、いまだ放置したままにしています。
けれど、民間にいる日本人は、心のどこかでちゃんとわかっていて、いまでもこうして、この花をアッツ桜と呼んでいる。
それが日本人です。
私は、アッツ島で戦い、散って行かれた山崎部隊長以下2,650名の英霊の方々を誇りに思います。
そして同時に、この赤い小さな花に、彼らへの追悼の心をこめて「アッツ桜」と命名し、
その名前を今に伝えている日本人という民族を、とっても誇りに思うのです。
=参考=
*「誇り高き日本を再び」より抜粋要約
*ねずさんのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3767.html
(引用終わり)