こんにちはニコニコ


介護生活を終え、セカンドライフ満喫中のアラ還主婦チューリップミセスラベンダーです。 


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母の退院を控えた夏の終わり、やっと介護施設の本人面接までこぎ着けました。


介護施設に入ることを母はまだ納得していなかったけれど、施設から相談員、看護師さんが来られて面接が始まりました。病院からは看護師長、相談員さん。そして私。


私の人生


ちょうどコロナ禍で、母と会うのは入院以来初めて。みんなが母に質問したり、母が答える間、私はじっと床を見ていました。母と目を合わせず、もう私の役目は終わりです…というオーラをまとって。


母は、初対面ではいい人ぶるところがあります。初めて会う介護施設の看護師さん・相談員さんに対しては、キレることはありませんでした。


でも、質問にのらりくらりと答え、入所する気がなさそうなのは伝わってきました。「私が施設に入った方がこの子は楽なのはわかってるけどね。やっぱり家が安心。私、寂しがりやから1人になったことありませんねん。娘のことは可愛いし、離れると心配で…。この子はようしてくれますねん。ほんまありがたい。」

隙あらば、娘が情にほだされてくれるのを狙っている。母を哀れに思って「自宅で介護します!」と私が言うのを期待しているショボーン
こちらの反応を伺うように話す母にゾッとしました。


でも、在宅介護での通院透析は難しいとの担当医からの判断を再度突きつけられると、母は黙り込みました。そして、リハビリをして歩けるようになったら家に帰る…と主張して、面接を終えたのです。


介護施設側には看取りまでお願いすることになっています。リハビリで歩けるように…なんて状態でないことは、医者の診断書や私達からの説明で施設側もわかっていましたが、母の前では否定せず終了。後日、無事に入所手続きができました。


入所の日、病院から介護施設までケアタクシーに同乗して母と向かうのは苦痛でした。運転手さんがいるため、母は電話のように私を罵倒することはありませんでしたが、こう言いました。「これであんたも少しはゆっくりできるやろ。私は家に帰れるようにリハビリ頑張るから、その間にあんたも早くうつ病治しや」びっくり


帰るアピールだけは忘れない母


やっと介護施設に母を送り届け、平穏な毎日が訪れるはず…でしたが、母にはスマホという武器が残っていました。


それからは、毎日毎日、昼夜を問わない母からの電話。


施設のご飯が不味い!医者がめったに部屋に来ない!感じの悪い入居者がいる!看護師がお天気屋、○○の寿司を差し入れろ!・・ガーン


施設では、栄養管理と衛生上の理由から差し入れは禁止だと入居時から説明してありました。それでも言うことを聞いてくれない母に、施設側から禁止だからと説明してもらいましたが、ついに母は逆ギレムキー爆弾むかっ


介護スタッフに「食べられるものないねん!こんなん食べられへん。ゲローゲーでそうなもんばっかり!」「衛生上って何やねん、○○の寿司を何やと思ってるねん!高い寿司やのに!」と本領発揮。


それでも施設に入ってしまえば勝手は許されません。怒り狂った母は、叔母に電話して娘に捨てられた!大事に育ててやったのに!…と訴えたそうです。


でも、母の期待は外れました。叔母には「長い間介護してもらったやん。すぐ施設に入れられたわけと違うやん。私らお母ちゃんの介護したか?下の世話もさせられへんかったやろ。夜中に何回もオムツ替えまでしてもらったやろ。もう限界やで。○○もうつ病で怖いくらいやつれてるやん。」と諭されてしまいました。


ついには私に「貯金いくら残ってる? 玄関まわり工事して! 家から透析に通えるように門から玄関に上がるスロープつけて!」と電話してくるようになり、自分で聞くから工務店の電話番号を教えろと言い出しましたチーン


門から玄関まで近すぎて、スロープつけたら滑り台になるよと返すと、車庫を潰して車椅子用エレベーターをつけろと言う母。


もうショボーンうんざり


玄関まわりを改築したら、今の体でも透析に通えるようになるかもしれない。

でも、帰ってきて…誰が介護するの?


私を殺す気はてなマーク


何度も何度も繰り返される電話に心が折れそうになった時、ふと昔、母に言われたことを思い出しました。


「自分のためにあんたを      

       産んだみたいやわニヒヒ


私の人生を母のもののように言われたこと。


アラ還になろうかという歳なのに、いつまで私は母に支配されてるのかな チーン


私の人生は私のものなのに。


涙が溢れ、今までの出来事を次々と思い出しました。そして、母からの電話に私は応えました。


「ごめん、もう面倒みる気力も、体力もないから」


それまで自分の言いたいことだけ話し続けていた母は黙りました。


「ごめん、もう無理やから・・」と私真顔


母は絶句し、電話を切りました。


それは、私から母という呪縛への決別宣言でした。


最期のお願いと言われて、何度 母の希望を受け入れてきたことか。私の人生で初めて、母の希望をはっきり拒絶しました。


そう、小さい頃から、母に無理だと言った記憶はない。


いつも母のご希望通りだった私の人生


これからは私のもの


それ以降、家に帰る!とはっきり言ってくることはなくなりました。(1回帰らせてもらうわ…とそれとなく言うことはありますが、無視します。)


あれから1年、母は心臓がさらに悪くなり、腕から透析するのに十分な血流もなく、ついには首から心臓に透析用のカテーテルを埋め込んでいます。


食事も好き嫌いが激しく食べないため、施設からは特別に食べたいものを食べさせていいと言われました。最近はお寿司や焼肉、パン、お菓子も、差し入れして食べています。


「好きなものを食べさせて」…それは余命が短いということなんだけど、なぜか好きなものを食べだしてから母は復活気味。差し入れが許可されたから、この調子でいろんな自分の希望が通ると思い始めたようガーン


施設に入って寂しいかな…かわいそうかな…そう思わないわけではないけれど、そんな心の隙間に入り込もうとするのが得意な母だとわかったから、もう2度と、母という呪縛には囚われない。


母の入院で別々に暮らした幼少期以来、初めて物理的に母と離れ、見つめなおした母との確執。


お母さん、私の人生はあなたのものじゃない


私は自分の人生をおねがい自分らしく生きていく


最後に…「生んでくれてありがとう、

育ててくれてありがとう」

それだけは母に言っておいた照れ


「母という呪縛」を綴りながら、自分の弱さに向き合ってきました。それも今回で終わりバイバイ

これからは自分らしく生きていけそうです 。


今までいいね!してくれたり、コメントで励ましてくれたブロ友さん達、ありがとうございます。


今は、母からの電話にも心がざわつくこともなく、夫と愛犬との生活を満喫しています❤️


これからはインスタで楽しい日々を投稿していくので、ブログの更新は今回で最後にしたいと思います。


でも、みなさんのブログは楽しく読ませてもらったり、いいね! しますねおねがい 


それでは、ごきげんよう爆笑バイバイ