昭和20年8月6日
マリアナ諸島・テニアン島を離陸した爆撃機が投下した
ウラン型原子爆弾が広島市上空で炸裂した日
文字で綴られても、克明な映像として記録されても、
その惨状たるや、未だに息を呑みます。
数年前に当時の秋葉市長がオリンピック開催を主張し始めた頃から
冷ややかな眼で見るようになりました。
「平和の祭典」という肩書きのスポーツイベントの招致に
同胞の記憶と記録を利用しようとする意図が垣間見えたからです。
同じ手法を、かのアドルフ・ヒトラーも採用しましたね。
大東亜戦争による犠牲者という肩書きを両手で掲げて、
甘い汁を未だに吸っている人はぎょうさんいます。
遺族とは無関係の人たちが、明治・大正世代を貶めて、
メシのタネにしているのは周知の事実です。
次の世代に語り継ぐ人を育成する事業を始めるそうですが、
世界的な問題と豪語している割に、その想いは世界中に届いていますか?
北朝鮮が核開発をちらつかせていた昨今の夏に、
広島市の平和宣言でその話に触れていない時がありました。
それは何故ですか?
何故、犠牲者の声は世界に届かないんだと思いますか?
それは貴方がたの主張に一貫性がないからです。
そして、平和な暮らしを送っていきたいという願いを
叶えるための代替案がないからです。
「世界市民」・「地球市民」なんて、学生の頃に触れる機会はありましたが、
今考えると、ひどく傲慢な、選民主義、選ばれた人間という
勘違いの末に造られた言葉です。
世界を一つに束ねる組織など存在しませんし、存在しえません。
たとえ出来たとしても、その中でも搾取構造は引き続き維持されるでしょう。
持てる者と持たざる者の搾取関係が、
有史以来数々の戦争を引き起こしてきました。
平和な暮らしを維持するために必要な代替案は、
今のところ、武力に代わるものは存在しません。
それはこの国の戦後世代の多くを除いた、
ほとんどすべての国民国家に所属する人々共通の考え方でしょう。
「自分の身は自分で守る」
そうやって、個人の、家族の、故郷の、地域の、地方の、
そして国家の安全と平和を維持してきた、ただそれだけなんです。
話し合いや信仰、主義主張だけで、争いや搾取はなくなりません。
話がかなり逸れましたが、毎年巡ってくる8月6日の、
今日捧げられた貴方がたの祈り、叫び、想いは世界中に届いたと感じますか?
届いたと感じられないなら、今まで何をやってきたんですか?
結果を伴わないなら、何もやっていないのと同じ。
結局、同胞の犠牲を無駄にしたまま、67年が経過したに過ぎないんですよ。
その状況を犠牲になった明治・大正世代が喜ぶわけないじゃないですか!
こんなていたらくを見せられるために、彼らは犠牲になったわけじゃない!!
もっと、上の世代に敬意を払って向き合うことに、是非取り組んで欲しいです。