目が開き、ようやく自分のいる場所がどこかを知ることが出来たとき、初めて目に映した空は曇天だった。
「この子は出来損ないだよ」
苦虫を噛み潰したような低い声がした後、女の人が嗚咽を漏らさぬよう手を口に当て、しゃくり上げながら泣き、横にいた男の人が眉を寄せながら目を逸らした。
しばらくして、二人は僕の両親であるとわかった。ただ、出来損ないの意味がわからなかったが、僕はヒルコ、と名づけられ、三年の間、立ち上がることも歩くことも出来ないまま、まるで腫れ物を扱うように育てられた。
ただひとつ、僕は---
✳︎
ザブンザブンと大きく波打つ海を、葦で出来た小舟で進む。
僕が生まれてわずかな間過ごしたオノゴロ島に浮いていたこの舟が、母の目を盗み這いながら外へ出ると、いつもなら繋がれているはずが自由になっていて、沖に進み始めていた。腕の力を使って舟に乗り込むと、ぶわりと大きな風が吹いた。
まるで、そのまま行きなさいと背中を押されているようだった。
母はいつも、このままこの子は大人になれないかもしれない、生きてはいけないかもしれないと泣いていて、母に悲しい顔をさせたくない想いがそうさせたところもある。
でも僕は、オノゴロ島にいた時よりもずっと元気に、毎日を謳歌していた。
「この先は川に合流して滝壺です、危険ですぞーっ」
「滝!? やった、行く行く!」
「行ってはなりません! 引き返せと言うのにーっ」
空から八咫烏という三本足の鳥が慌てて教えに来てくれたが、僕は俄然胸が踊る。
一度、滝が何かを知らなくて落ちたことがあったのだが、それはもう面白かったからだ。
見事に転覆したが、僕は水浸しになっただけで、柔なはずの舟も無事。
落ちる時の感覚がまたスリル満点で、滝とは僕にとって遊び場だ、という認定が降りたのだ。
「ひゃっほーっ!」
ザッパーン! と、飛沫を上げてバンザイをしながら落ちる。
癖になるほど楽しい。それなのに、八咫烏やみんなは何故か、気をつけろ、行くな危ないと注意をして来るのが不思議でならない。
「あなたは……本当に無茶が過ぎますよ」
「そうかな? 僕はまたやりたいよ! 君もどう?」
呆れたように近づいてきた八咫烏は、結構ですと言ってため息をついた。
また全身びしょ濡れになりながら、葦の小舟まで泳ぐ。
八咫烏は、いつからかどこからともなく現れて、こうして忠告や導きをしてくれるようになった。だが、僕が聞き入れたことはほとんどない。
駄目だと言われても、行くなと止められた場所も、関わるなと促された出会いも、僕にはどれもこれも最高に素晴らしかったからだ。
巨大な身体を猛烈なスピードで移動させ、口をぱっかりと開けて迫ってきたサメくんもそうだ。
逃げろ逃げろと、周囲から魚たちも一斉に散り散りになったが、僕はそのままだった。
「今日も格好良いなあ、その歯! 羨ましいなあ」
「あんたは今日も変わった奴だな……」
尖った鋭利な歯に見惚れて、瞳を輝かせた僕を見て、サメくんは食欲を削がれたと言って、口を閉じた。それが初対面。
食べるなら食べられてもよかった。僕だって舟の上から魚釣りをしてお魚さんたちを食べるから。
ニコニコしながら歯を褒め続けているとやがて、サメくんは舟の傍にさり気なくついて一緒に泳いでくれるようになり、友達になっていた。
海に出てから、イカさんや亀さんや貝さんたちと仲良くなっていたが、みんなサメくんを怖がって近寄って来なくなり、自分がいるとお前が寂しいだろうとサメくんは離れようとしたが、僕はそれは違うと止めた。
そして、しばらく僕とサメくんが話をしながら旅を続けている様子を見ていたみんなは、ゆっくりとまた近づいて来てくれるようになり、今じゃまるで仲間のように会話をする。
「あのう! 私、その昆布が欲しいんです、いただける?」
「どうぞどうぞ、持っていってください!」
遠くに見える浜辺から呼びかけられ、立派な大きさの昆布を何枚か重ねて束にして紐で括り、八咫烏に渡してもらうよう頼む。
どうしてこんなことを、とブツブツ言いながらも飛んでくれる八咫烏にありがとうと言い、浜辺に立つ人に手を振った。
昆布という海藻の存在もまた知らなかったが、木の棒を垂らして引っかかった、ぬめりのある葉のようなものを、食べられるよと教えてもらって以来、見つけると舟に引き上げて干しておくようになった。
その木の棒に、糸をつけて垂らすことを教えてくれたのは、またどこか別の村の人だった。
最初は一体この装置が何かすらわからなかったが、何度も挑戦してやがてコツを掴み、今では釣り名人の呼び声高い腕利きだ。
「はい、お礼ですって」
しばらくして帰って来た八咫烏が、嘴に小さな丸い器を咥えている。
「ありがとう。これは何だい?」
「壺と言うものですよ。釣れた魚を入れてもいいし、水を蓄えても、大切なものをしまっておいてもいい」
「壺……? ふうん、面白いなあ」
手に持ってクルクル回転させながら観察すると、縄でつけたような紋様や、見たことのない鮮やかな朱色で色付けされていた。
「何に使うのがいいか、きっと思いつくよ」
僕はこうして、見たことも触ったこともない色々なものを、誰かからもらったり、発見したりしながら舟に載せている。
旅の途中で、欲しいと言われたときにはあげているのだが、こんなふうにまた何かが還ってくるので、小さな舟は満杯になっていた。
一粒で万倍にも実る籾、重厚な鏡、小判という金色に輝く薄くて丸いものや、甘い香りのする桃という果物、春という暖かな季節にだけ咲く桜という樹や、水が湧き出る瓶、絹糸がとれる蚕という虫さん……数えきれないほど山のように。
葦で出来たボロボロの小舟は、いつしか宝船と呼ばれるようになっている。
最初は、父と母のあの悲しみから逃げるように始めた死出の旅路だったはずなのに、今では毎日が冒険だ。
こんなに長生きをして大きくなれるなんて、誰が想像しただろう。
嵐のなかで身体を投げ出され溺れかけて、さすがにもう駄目かと覚悟をした時も、波が間一髪で収まり助かった。
凪の時には、ポカポカの陽射しを浴びて日向ぼっこをして、鯨の背に乗り昼寝三昧。
暗い夜も、どこからか風にのって聴こえてくる子守唄を共に口ずさんだ。
そうしていつも誰かが助けてくれて、必ず最後には笑っていたのだ。
「僕はなんて果報者なんだろうね。一人でなんにも持たずに来たのに、みんなが優しくしてくれたから、こうして旅をしていられるんだ」
「それは、あんたが優しいからだろう。俺は……おかげで、やり残したことを思い出した」
「やり残したこと?」
サメくんは、しばしの別れを、と僕に告げた。理由を訊くと、嘘をついて背中を踏みつけながら島まで海を渡ろうとした不届きなウサギの毛を毟って罰を与えたらしい。
身体が赤く腫れ上がり、痛みで泣くウサギに、当然の報いだと放置して来たのだと。
「俺は、あんた……あなたと共にいて、あれは間違いだと気づいた。過ちに過ちで返したらいけないな」
サメくんは、ありがとうと言って笑った。僕は、よく事情が呑み込めなかったけれど、サメくんが笑うのを初めて見たから、嬉しいと思った。
「うん。いってらっしゃい、サメくん。ウサギさんはきっと大丈夫。誰かが助けてくれたよ、僕のように」
そうだよね、と、頭上を黙って飛んでいた八咫烏を見上げると、八咫烏は静かに頷いた。
「あなたは素晴らしい神さまですよ」
そう言って、友達のサメくんは海の中へ潜って行った。
「カミサマ? カミサマって何だろう」
「そうですね……最初に始まり、生み出し、見届け、信じるものでしょうか」
八咫烏は、空から温かな光をくれる大きな円に向かってカア、と一鳴きした。
「おや、舟に載っている宝を欲している方がおられるようですよ。どうしますか?」
「もちろん行くよ! 案内してくれるかい」
「承知しました」
快諾してくれた八咫烏が船首に止まり、方向を指し示す。少し遠い道のりのようだ、と言われたが気にしなかった。
また、新しい冒険が出来る。
「あなたは、とっても強い方なのですね……」
「強くはないよ。弱いから、こうしてここまで来られたんだと思うんだ。今も立てないし、歩けない」
途中で、一人の女性を見つけた。彼女は小さな椿の木の下で、静かに涙を流していた。
目が合うと、ふわりと微笑んで、冬だというのに春風が吹いた。
「君の笑顔は、宝だね」
気がついたら讃えずにはいられなくて、女性を舟旅に誘っていた。
悲しいことがあったのか、と訊ねたら、違うと首を振り、大切な妹がお嫁さんになったと、また涙を流した。するとその涙は一粒の真珠に変わって、ころりと手のなかに落ちて来た。
彼女は、イワナガヒメ、と名を教えてくれた。
「ほら、やっぱり美しい宝だ」
僕が再度言葉にすると、枯れ枝だった梅と桜の木が満開に花開いた。
「もうすぐ着きますよ」
目的の人物がいる場所まで、あれからどれほどかかっただろう。
途中、イワナガヒメを富士の山まで送り届け、また八咫烏と二人、海を渡って。
「ここは……」
「お帰りなさい、ヒルコノカミさま」
オノゴロ島です、と言って八咫烏が空に羽ばたく。生まれ故郷に帰る道はとうに見失い、帰りたくても帰れない--いや、帰ってはならない場所だと思っていた島。
「母上さまはお亡くなりになりましたが、父上さまが、お探しでした。イザナギさまがお造りになられたこの葦の舟に乗っている、最も愛しい宝を」
信じられない。記憶のなかで父は、僕を歓迎していなかったはずなのに。
「母上さまと弟君に黄泉の国で再会して、変わられたのです。父上さまは、この世に戻りあなたを真っ先に想われて私を遣いに」
そして八咫烏はこうも教えてくれた。昼間、明るく照らす光や夜のぼんやりとした光は、僕のきょうだいたちであったことを。
この海もまた、弟の守りが働いていたのだと言うことを。
「だからどんな嵐が来ても助かって、夜が来ても怖くなかったんだなぁ……」
次から次へと海で友が出来たのも、全部。
やっぱり僕は、果報者に違いない。
「ヒルコ……!」
その時、記憶のなかよりも歳を重ねた男性が、バシャバシャと音を立ててこちらにやって来た。
悲壮な面持ちは、生まれたばかりの僕を見た時と同じように。
「本当にすまな…」
「お父さん! ありがとう!」
僕は、大きな声で叫んだ。
父であろうその人が立ち止まる。
「とっても楽しい時間だったんです! みんながいてくれたから……今度は、お父さんも一緒に行きましょう! あの世にはお母さんと弟がいるというから、いつか死ぬのも怖くないし、海にも空にもきょうだいたちがいるから怖くない! だから、きっと楽しい! 知らないって、出来ないことがあるって、面白くて、幸せだから!」
ひと息に言って、父の方へ向きを変えて舟を手で漕いだ。波が、そっと流してくれる。
風が背中を押してくれる。
冒険に旅立った、あの日のように。
僕の名前はヒルコ……蛭子、と覚えられていることが多いが、父、イザナギに初めて抱きしめられて知った本当の名は、光流来。
僕がカミサマかどうかはわからないけれど、この宝船には今日も、数えきれないほどの愛と、希望と、優しさと、友情と、信頼が、福の山となり載っている。
【終わりも過程もよければ佳し】
ヒノカグツチと同じく、
どうしてもどうしても心に蟠る神さま、
蛭子神のお話でした。
本当に流されて捨てられたのですか、とお訊ねしたら、自分で船に乗った、と。
イザナギ、イザナミからは
それでも、いなくなったことに
どこかホッとしてしまった気持ちを否定できない、だから捨てたも同然だ、と
そんな想いが来ました。
でもそのすぐ後、
海での暮らしはものすごく楽しかった!
行ってよかった!と
キラキラ光る水面と満面の笑みが
イメージ画として見えたのです。
蛭子神は、流れ着いた先で助けられて
恵比寿天になった説があって
それは少し設定をお借りしました。
そして、
私の中でどうにも蟠る神話のもう二つ
因幡の白兎、
醜いからと帰された石長比売、
これらも入れたことで詰め込みすぎたかと思いながら、このイメージも見えたものでしたから、やっぱり入れられてよかったです
真実かどうかわからないけど
見せていただけたから
勝手に救済してしまった
私のエゴ爆発神さまシリーズ、
最後までお読みくださり
本当に本当にありがとうございました!