私は、三途の川のほとりにある衣領樹という木で、盗人の罪を量るために存在している老婆だ。
ボサボサの白髪に、こけた頬。般若のように裂けた口と、浮き出た骨が目立つ胸元の開いた継ぎ接ぎだらけの着物。
それはそれは醜い姿をしている私は、ひと目見るなり腰を抜かされることもしばしばだった。
そんな私はどのように罪の重さを量るのかと言うと、あの世とこの世の境目である三途の川にやって来た亡者の服を、樹の枝にかける。
枝のしなり具合によって罪の重さは異なった。私はこの場所から動けない。毎日毎日、罪人の背負う業を見ているうちに、人に対する希望が薄れ、やがて皆無になった。
情け容赦のない私を、うつし世では奪衣婆、と呼んで恐れるようになったが、知ったことではない。
己の行いを省みて生きなかったツケではないか、と思っていた。
休む暇などいくらもないが、ほんの少しの合間には自分の着物を繕う。引きずるように長い、すえた匂いのする着物を。
「あなたにお呼びがかかりました。今すぐおいでなさい」
遣いの鬼がやって来て、私に告げた。おそらく閻魔大王さまだろう。閻魔大王さまとは、最後の審判を下す狭間の世界を統べる方だ。
わかりました、と答える私を見ようとせず、鬼はどこか悲しげな瞳で、先に三途の川を渡り始めた。
「そう言うことだから、私は行く。あとは頼んだよ」
衣領樹の場を任されていたのは私だけじゃなく、懸衣翁という老爺もいる。
彼にひと声かけると、懸衣翁もまた、どこか気まずそうにただ頷いた。
灰色の、暗い空。その下に流れる三途の川は、閻魔大王さまに繋がっている。
業が深い者は途中で足元を掬われて溺れ、六文銭という渡り賃を持っていない者は船にも乗れないと言われているが、そんなことはない。
必ずこの川を渡り切ること、それが第一の関門だからだ。
冷たい水に浸り、洗い流されていく生前の執着。未練や恨み辛み。
それだけではなく、あらゆる感情が溶かされて、ただひとつ、真心だけが残る。
嘘をつけない、真実の言葉だけを告げられるように。
バシャバシャと飛沫をたて、私は三途の川に入った。
身体がとても重たい。
着ていたボロ布のような着物が水を吸っていくたび、鉛のように足が前に進まなくなる。
向こう岸で、呼びに来た鬼が待っていた。元いた場所からは、懸衣翁が見ている。
「本当に……嘘はつけません、ねえ」
沈まないはずの身体が、どんどん川の中に引き込まれて行く。
私は、抗うのをやめた。
「情け無い、奪衣婆ともあろう私が……」
私の周りだけが渦を巻き、濁流となって呑み込もうとする。
ああ、裁きが来たのだと、不思議と笑ってしまった。
*
ある日、手にした衣服から映像が浮かんで見えるようになった。
腹を空かせた子どもに食べさせるために、隣の家のリンゴの木に手を出した母の姿。
居場所がなくなり、家を失った老人が取ったサラリーマンの財布。
熱に倒れた仲間を救うために、薬屋に忍び込んだ若者。
山で遭難し、襲われそうになったと勘違いをして、お腹に子を宿す母熊を撃ってしまった猟師。
亡者全員の罪の背景が見えるわけではなかった。共通していたのは、やむにやまれぬ事情で罪を犯し、それを心底悔いているということだと気づいたのは、彼らが皆、自ら着ているものを差し出してくるとわかった時だっただろうか。
多くが、私を怖がり逃げようとする。自分は何もしていない、と最初から嘘をつく。
そして、懸衣翁が衣服を剥ぎ取り樹にかけると、それは折れそうなほどしなった。
悔いたところで罪は罪。閻魔大王さまがどのような沙汰を下されるかはわからないが、私がしなくてはならないのは、ただ淡々とその重さを量り、正しく申告をすること。
それだけだった。
「あなたは、こうなることを承知していたのですか?」
目が覚めると、閻魔大王さまではない誰かが微笑んでいた。
神々しい、という表現しか出て来ないような、ただ白く眩しい場所にいる。
見知らぬ誰かは、私の着物の袖をそっと持ち上げた。
「生前の罪を軽くしてやるために、彼らの衣服を破いた。だが、隠す場所もない。だから、自分の着物に縫い付けたのですね」
「……はい」
三途の川では真実しか残らない。見破られないわけはないこの所業を問うため、召集を受ける時が必ず来る。
今日かもしれない、明日かもしれない。いつまでここにいて、こんなことを続けられるだろうかと、綱渡りをするような日々だった。
罪の衣服を纏えば、閻魔大王さまを謀った嘘の罪も重なり、こんな末路を辿ることは明白。懸衣翁や鬼がいたたまれない表情をしていたのは、それに勘付いていたからだろう。
「浅はかだとわかっていました。私に肩代わりなど出来はしない。庇うことなど許されない。けれど、どうしても見送れなかったのです。地獄へなど、行かせたくなかったのです」
人間に触れ続けたせいだろうか。感情が揺れるなんてこの何千年とないことだった。
「あなたが奪衣婆と呼ばれるようになったのは、この身代わりを始めた頃からだった。醜い顔をわざと晒して脅かし、彼らから罪の証が染み込んだ衣服を剥ぎ取るようになった時から……」
本当は、衣服は奪わない。
自らの申告があるかないかでまず判断される場所だった。
やましいことがなければ差出せるからだ。
だが、その自らの正直な申告は減り、己を偽る者が増大した。三途の川で溺れることはないし、船に乗れないこともないが、偽りがなくなるまで進めない、という人間ばかりになった。
そこで、最初の私はとても美しい女神の姿で存在していた。誰もが受け入れやすく、すぐに信じられる姿で……
「何故、自分の命さえ危ぶまれることをしてまで、恐れられてまでこんなことを?」
詰問ではない穏やかな口調で問いかけられる。 どこからかひょっこりと現れた小さな金色の蜘蛛が私の肩に乗り、同じ金色の糸をひいて膝まで降りた。
「わかりません。ずっと、わかりません。彼らが犯した罪により、痛みを被った者がいる。その者たちにしてみれば、如何なる理由があろうと身勝手な行いでしょう。それでも私が同じ立場にいたら……私は罪を犯さずにいられただろうかと思うのです。自分よりも大切な誰かの命のために、何もしないことは罪ではないのでしょうか」
ポタリ…と、生まれて初めて涙というものがこぼれ落ちた。私は、人ではないのに。
蜘蛛が出した金色の糸が、私の手に巻きついていく。
「私もあなたのように、遠い昔……地獄に落ちた青年をひとり、こちらに救いあげようとしたことがあります。彼は極悪人と呼ばれる罪人でしたが、生前、蜘蛛を一匹助けたことがあり、その行いに、光を見出だして。だが彼は、私が垂らした蜘蛛の糸に他の者が群がり出すと、切れてしまうのではないかと危惧して彼らを蹴散らそうとしたのです」
金色の蜘蛛は、私から、目の前で語る人の手に向かって飛んだ。
まるで橋が架かったように、私たちは金色の糸で繋がっている。
「私は、青年の愚かさに糸を切りました。でも今は、なぜ、最後まで見届けなかったのかと思っています。もしかしたらこうして、この場所にたどり着けた彼は、皆を引き上げようとしたかもしれないのに」
そこまで聞いて、私はこの人がどなたなのかようやくわかった。
信じられないことだが、三途の川に呑みこまれたはずの私は今、極楽にいるのだ。
この方は、お釈迦さまだ、と。
「人間の罪を隠し、自ら地獄に落ちる覚悟をしながら奪衣婆と呼ばれ、それでも人々のなかにある希望を見続けようとした。その慈悲、私にはかないません……」
いつの間にか、釈迦如来と私を繋いでいたはずの蜘蛛の糸が、まるで繭のように私を包み込んでいる。
「観音菩薩」
身に覚えのない名前で呼びかけられた。
「全ての衆生を救済するために菩薩のままで居続け、更には鬼の婆にまでなろうとした。でも……美しいあなたの心根までは、隠せませんでしたね」
胸元が開き、痩せこけた肋骨を晒すみすぼらしい着物。ボサボサの白髪。
般若のような、裂けた口……
あの、すえたような匂いが嘘のように、芳しい花の香りが身体の周りから溢れ出る。
そして、固くなっていた繭にパキパキとひびが入り、パキンと割れた。
中から出て来たのは、白魚のような手と、すべらかな絹を纏う、別人のような私。
何もかもを思い出した、本当の私の姿になっていた。
「……いいえ。私は迷い続けています。だから、菩薩で良いのです。この迷いがあるから、私は世の音に耳を傾けられる。どんなに汚れたところであろうと、目を向けて観られる。そこに光を探すために」
長い間、奪衣婆として在るなかで私は忘れていた。自分がなぜ、あの狭間の場所で、鬼のような女となったかを。
蜘蛛の糸を切られた青年は、私のもとにもやって来ていた。
でも私は、彼の背景を見ることはなかった。地獄で学びを得たことで、彼が変化したのだろうと思う。
たとえ、途中で糸を切られたのであっても。
「上がれると思えたところから落ちれば、絶望は計り知れません。だけど私は、私は忍耐強くはないから、たった一本の糸を垂らすのじゃなく……きっとこうやって出来るだけの手を出してしまう」
千の手を。
争って奪い合わなくても良いように、こうして出してしまう。
「だから、私は鬼婆くらいがちょうど良いのです。考える力を養い、愛の選択が自ら出来るように見守るためには」
華やかな冠や、ビロードのような肌が元に戻っていく。
あの、恐い恐い奪衣婆の姿に。
そして、また帰るのだと決めた。
懸衣翁が待つ、三途の川へ。
「私の勝手を見逃してくれてありがとう」
閻魔大王の化身であるあの懸衣翁に、感謝するために。
【奪衣婆の苦悩】
奪衣婆とは