小さなひとりの少女が、今、目を閉じようとしていました。
この少女は、みすぼらしい身形をし、いつもとても疲れていました。
ある時は、信じていた人に裏切られ、「化け物」と罵られながら見知らぬ誰かに追われて逃げ惑う時を過ごし。
ある時は、有り余る富のなかで欲しいものは全てを手にできるほど豊かであったけれど、何の愛も温もりもない孤独な時を。
またある時は、帰る家もなく、お金もなく、けれど唯一心通じあえた恋人を失った時を。
幸せだった時間も確かにあるというのに、それさえも凌駕する様々な痛みと苦しみのうねりのなかから抜け出すことが出来ずに、ただ絶望の冷たさを生きて来ました。
そして今、ようやくの思いで、“普通”である自分になれたというのに、何かは、形を変え姿を変えながら繰り返し少女の元へ戻ってくる。
精根尽き果て、涙を流しながら少女は言いました。
「神さま……私を、あなたの元へ帰してください」
宝物をなくしてしまったのです。
どんな時も、決してこれだけは手放さなかった宝物。
この光だけが、導いてくれて。
支えだった。
だからもう、息をすることも、目を開けていることもできません。
愛することも恐いのです。
他人も自分も信じられない。
本当は、ずっと恐かったのです――。
少女は、誰に聞かせるわけでもなく、叫びました。
笑いたくないのに微笑み続け、泣きたいのに泣かなかった時代。
自分の顔を忘れてしまいそうになった。
それでも、走り続けたのです。
誰に強いられたわけでもないのに、急かされるように、追われるように。
振り向けばそこには何もないと知りながら、追っているのは自分だという答えを抱えながら。
もう、声にする気力も残っていません。
ですから、少女のこの張り裂けそうな胸の痛みは、音になることはありませんでした。
そう、音になることなく、誰の耳も届いていないはずだったのです――…
眠ろうとする少女の頬に、優しく触れる暖かいもの。
ふわふわと、何度も行ったり来たりする何かを感じました。
「怖い夢を、見ていたんだね」
その温もりは、少女を起こすために何度も言いました。
もう、大丈夫だよと。
「あなたは……?」
「ああ、ごめんね。驚かせてしまったかな」
そっと目を開けると、見たことのない姿の何かがいます。
でも何故か少女は、ちっとも恐ろしくありませんでした。
「色んな……動物を混ぜたみたいに見える」
「そうかもしれないね。僕は、神さまが特別に創ってくれた。この世界では、バクと呼ばれているよ」
ゾウのようで、サイみたいな、それからクマにも……とにかく、そんなへんてこな動物、バクは、笑っていました。
「怖い夢を見ていた、と言っていたけれど……?」
「そう。言葉の通りだ」
不思議がる少女に、バクは、ただうなされていただけだ、と言うのです。
「私が遭った拷問のような日々は、痛かったし、これ以上もないくらいに辛かったのです。夢であるわけがありません」
目の前にいるこの何かには全く罪はないのに、少女は止まりません。
堪えてきたたくさんの涙を、想いを吐き出し続けました。
「神さまと、何度呼んでも変わりはしなかった」
ハラハラと瞳から流れ落ちる涙と共に、訴えます。
「……応えていたよ……。君が気づくのを待ちながら」
そんなの嘘だ、と少女は思ったけれど、もう言葉になりませんでした。
どれほどの時が経ったのでしょう。
「さて。これが君のなかへ戻らないうちに、始めるよ」
泣きじゃくる少女の頭を黙って撫でていたバクが、言いました。
「何をするの?」
「大丈夫。怖いことはないよ。さあ、ゆっくりと息を吐いて」
言葉の意味がわからず、一つも腑に落ちないままでしたが、少女は魔法にかかったかのように従っていました。
「これが、怖い夢の素だよ。」
小さな口から吐き出されたそれは、不思議な色をしたモヤ。
怖い夢の素だというのに、どす黒いわけでもなく、敢えて表現するとしたならそれは――
「にじ、いろ……」
「美しいだろう? 君が、この世界に来る前に通って来た道の光の名残なんだ。これが、この幻の世界で君にあらゆる夢を見せてくれていた。だから、君に傷は一つもついていないんだよ」
「そんなまさか」
その言葉を聞きながら、確かに少女についていたたくさんの傷痕が跡形もなく消えていったのです。
「幾度も繰り返した古の記憶も、君を縛りはしない」
あんなに苦しい思いをした。
愛しい人と結ばれることもできず。
正直に言えば、人間は心が見えず苦手で。
いつも、何か罪の意識に足をとられて転んだ。
欲しいと思えば、隣の誰かの手のなかにそれはやって来ていた。
それが全て夢、幻だというのか……?
「よし。これから僕が、君の夢をバクーっと食べてしまうからね」
「うふふ。面白い冗談言って」
ケラケラと、今までからは考えられない愉快さがこみ上げて声を上げて少女は笑いました。
そんな少女の様子に満足気に頷けば、バクは大きく息を吸い込みます。
「この幻から解き放たれれば君は、最初から自由なんだということを知るから」
虹色のモヤを、バクの決して長いとは言えない鼻が、すうっと吸い込み始めました。
「暖かいわ……なんてあたたかいの」
身体から抜け落ちたモヤの代わりに、少女のハートをみるみる満たしていく光の熱。
よく頑張ったね、もうこれが最後だよという声を聞いて、少女の瞳からひとすじの涙が流れ落ちたのでした。
「君は、償いのために生まれてきたのではない。こんなにも愛し、愛されている。君は、愛の結晶なのだから」
少女は、ようやく、自らの足で立とうとしていました。
「でも、悪夢を食べてしまってお腹を壊してしまったりはしないの? あなたに、苦しみが移ってしまったりはしない?」
心底不安そうにつぶやく少女に、バクは、へっちゃらさ、と言いました。
「あなたは、まるで……」
ーー求めなさい、幸せを。
願って、叶えることにもう迷わなくて良い。
「起きる時間だよ。目を開けて」
最後の声に、少女は。
「あなたは誰……?あなたの名前は―一」
「――……」
薄れゆく意識のなかで、少女はただ、感謝し続けていました。
そのへんてこな姿をした動物――バクに。
*
「あなたは、どうして悪夢ばかりを食べているの?まずくはないの?」
いつかの少女は、やがて長い永い眠りから醒めて、かつての自分のように、怖い夢にうなされる人々の、虹色のモヤを食べる動物と……いえ、本来の形を取り戻し、今やあの時の自分の問いかけと同じことを訊かれるようになっていました。
「舐めた涙は苦いけど、この優しい寝顔を見た瞬間、食べた悪夢はお菓子のように、甘くおいしくなるんだよ」
今なら、心から言えるのです。
あのときの、バクの言葉の意味を全身で体験している今ならば。
「何だか、とっても気持ちがいい」
モヤを吸いとり始めると、何とも言えない嬉しそうな表情で、少年は安堵を浮かべました。
ああ、その感覚がわかる、と懐かしい気持ちになります。
「この虹色のモヤはね、あるものを護っていたの。だから、食べてしまえばきっとわかる」
さあ、思い出して。
持っている力、可能性。
喜びの魔法の使い方や、奇跡の瞬きを。
楽しむために、この世界を選んだのだから。
自由に、思い通りに泳いでいくことができると。
「君には、このモヤが虹色に見えたのでしょう? だから、大丈夫なのよ。本当の色が、価値が見えている君は」
「何故、助けに来てくれたんですか?」
萎れていた心に水が注がれ、祝福の音色が奏でられるとき、本当に、本当に幸せだといつも思うのです。
今まさに、また一人、どんよりと曇った空から光差す瞬間を目に映そうとしていました。
「呼んでくれたら、どんな時も傍に行くわ」
ただ、笑顔が見たい。それだけを望み、あなたの元へ。
そう、これは。
「あなたはまるで、天使みたいだ」
神の護る光の覚醒のため、
「ふふ。聞こえましたか。私もこんな風に言ってもらえるようになりました。ねえ、バクさん……ミカエル」
ちょっぴりへんてこな姿となった、ひとりの天使の、昔々のお話。