先日息子の修学旅行の説明会なるものがあった。私が中学生の頃は、修学旅行に説明会なんてなかったから、少し驚きはしたもののいそいそと出かけていった。
体育館の入口でスリッパに履き替えて、青い折りたたみ椅子に座る。そろそろ始まる時間。と、体育館の白い壁に「子どもたちが入学して半年が経ちました。学校生活の様子をぜひご覧ください」というメッセージが映し出され、その後中学生たちの写真がスライドショーで映し出されはじめた。
なんとも手厚いことにBGMは小田和正の「言葉にできない」。
確かに、説明会のお知らせに「冒頭10分:子どもたちの普段の様子のスライド」と書いてはあった。え、でも、こんなにエモい感じで?これから修学旅行の説明会という極めて事務的でお固い系のイベントが控えているのに?なぜ今?
困る。なぜならば、子どもたちの写真だけでも危ないのに、そこに「言葉にできない」ソングの追い打ちをかけられると、確実に!
泣いてしまう。
泣いてしまうんです、先生!しかも、ほろっとこぼれる涙をハンカチでぬぐうみたいな清楚な感じではなく、ガチの号泣状態になっちゃうんです!嗚咽付きで、異常な量の涙が出ちゃうんです。そして、それを抑えられないんです。周囲の人たちをドン引きさせるような泣きかたになっちゃうんです。
しかしもちろん容赦なくスライドは続く。「言葉にできない」を何とか乗り越えた後は、ジュディマリ、スピッツと言った私たち世代の青春ど真ん中の象徴ソングが続く。え、なんですか先生、泣かせにかかってますよね?これで終わりならまだしも、これからしっかり聞いてメモしないと忘れ物が続出しちゃう修学旅行の説明会が控えてるんですよ。
等々、心のなかで葛藤の叫びをあげながらも、なんとか嗚咽だけは抑えて数分間を耐え抜いた。自分の子供の笑顔いっぱいの写真が出てきたときは本当に危険だった。その後ややボーっとしながらも本来の目的である修学旅行の説明もなんとか聞けた。頭にちゃんと入ったかどうかはわからない。
私の涙もろさはすごい。子供の動画とか写真とかドラマとかに対する反応はデフォルトが「泣き」である。ドラマのシーンで子供が「ママー!」とか言ったら百発百中で泣く。それどころか、まだ「ママー!」って言ってないのに、「言いそうかもしれない」と言う雰囲気の察知だけで泣く。あと弱いのは、子供の成長シーンである。あんなに幼かったあの子が今日結婚式を迎えます的なCMなりドラマなりのシーンはもちろんアウトである。それは想定内としても、最近は「成長」という単語を聞いただけで涙腺が崩壊しそうなときがあり、我ながら呆然とする。
子供を産む前に、とても印象深かった話がある。確か徹子の部屋に年配の俳優さんが出演され、自分の娘の話になった。娘さんはまだ12歳とかで、徹子さんも場を盛り上げるためであろう、「結婚とかされたらどうしますか?」という趣旨の質問をしたところ、その俳優さんがその場で泣いてしまったという話。その時「頭狂ってるな」という感想しか持てなかったのをよく覚えている。だって、まだ、12歳だよ?結婚するのかもわからないし結婚したとしても10年以上先の話なのだ。今結婚が決まったならまだしも、まだ小学生の娘の結婚を想像しただけでテレビ番組で泣くなんて、やばいわあああ。笑える。そんな風にしか思えなかった。
翻って今。私はこの俳優さんの気持ちがとても、とても、とても良くわかる。ていうか、自分もまだ子供が赤ん坊のうちから、結婚をしたり独り立ちする姿を勝手に想像してはいちいち泣いたり騒いだりした。あの時何も知らずに冷笑してしまって、本当にあの俳優さんに悪いことをした。
子供が保育園に通っていた頃、運動会の年長さんの出し物が最強の危険ゾーンだった。「保育園最後の運動会で子どもたちが一生懸命踊っています。数年前は赤ちゃんでハイハイしかできなかった子どもたちがこんなに成長しました」って、誰も言っていないのに勝手に脳内ナレーションが開始してしまい、嗚咽付きの号泣をしてしまうのだ。ちなみに自分の子供は出ていない。その泣き方が我ながらあまりに激しくて、しかも自分の子供はただの年少だったりするので、恥ずかしくてたまらなくて困っていた。
こういうのって、涙もろいと言うより、情動失調とか情緒不安定というのではないかと思う。子供が関係していなくても全般的に感情が激しくて、心配になったり、不安になったりする度合いが強い。かと思えば嬉しいときの喜びも激しいという感情のジェットコースターがいつまでも治らない。ドラマを見ると子供でなくても登場人物の誰かが泣くと一緒に泣くし、つらそうだったり、それを乗り越えたりしたり、何かしら登場人物の感情が強く動いてそうなシーンではほぼ確実に一緒に泣いている。
これがしんどいときも多い。実に多い。感情に振り回されてると思うことも多い。もう少し感情が穏やかだったら自分の人生はずっと楽だろう。
でも、思い起こせば、青春時代、私の感度はむしろ逆だった。中学生の頃は、何にも感情が動かされなかった。そんな自分を退屈だと思ったし、怖いと思うこともあった。成人してからも、叔母や、祖母が亡くなったりしても、全然悲しいという感情が湧いてこなかった。かわいがってくれた人たちなのに。そんな自分を冷たくて嫌なやつだと思った。それに悩んでいた。まるで自分と世界の間に灰色の膜が張られたように、何も楽しくなく、面白くなく、つまらなかった。その一方で、何かを不安に思ったり、落ち込んだりすることもほとんどなかった。
それが変わったのは、恋愛をするようになってからだ。私は、明らかに恋愛が下手だった。相手との距離感も掴めなければ、男性と女性の違いのようなものも分からず戸惑ってばかりだった。それなのに相手に執着してしまって、恋愛ではつらい思いばかりした。それでも、辛ければ辛いほど、相手が振り向いてくれたり、メールをくれたり、会えると分かった時の喜びも大きくなる。その喜びはこれまで感じたことのないような強いものだった。今から考えると完全に依存症的な感情の起伏ではあるが、健全だろうとそうでなかろうと「強い喜び」をわずかでも我がものとして覚え始めたのは確かだ。
そして、出産。さすが、人を一人世界に生み出すという行為はすさまじい。生む前と後では、物理的にはもちろん、感情的にもまるで別人のようになった。これは、ホルモンも大いに関係しているとは思う。とにかく子供が絡むと、ちょっと笑っただけで狂ったように喜び、泣き止まないと狂ったようにオロオロし、寝顔を見て狂ったように陶酔し、デキモノが一つできただけで狂ったように不安に駆られた。
中学生の自分に教えてあげたい。数十年後には、狂ったように感動ばかりしているよと。願ったものは手に入っているよと。でも、それを「良かったね」という気持ちと共に伝えられるかどうかは自信が持てない。全てが色濃くてジェットコースター並みの感情アップダウンが日常となった今、平穏とは程遠い地点にいる。むしろ今は、不安や落ち込みがほとんど無かった中学生の自分が少しうらやましい。そちらのほうが、確かに穏やかではあった。今私が欲しいものの筆頭はもう少し穏やかで落ち着いたメンタルである。
感情って、人と結びつくためにあるんだろうと思う。人と強く関わりたいと心の底から本気で思うようになったときに、感情スイッチが作動し始めた。多分、自身の子供に対して息を詰めるように激しく反応する母親の方が、少なくとも狩猟採集民の時代には生存率が高かっただろう。私たちはそういう人たちの子孫なのだ。だからこの激しさも仕方が無いのかもしれない。
私の人生には、子供以上に強くつながりたいと思う人はもう出現しないだろう。つながりへの渇望が落ち着けば、私の感情はどうなるのだろう。きっと、多分、程よい中間地点に行き着くのではないか。脳を含めた様々な臓器が衰えて、全てが鈍くなっていくだろう。それを、残念というよりもはや少し待ち望んでいる自分がいる。それを、絶望というより希望と呼びたい。
