英語を勉強(海外で実際に話す)しないと、

国語の勉強をしないと、

社会の勉強をしないと、

理科の勉強をしないと、



その教科の知識や経験は深まらない。



だとすると、幸せを勉強しないで、

幸せになれるのかな? と不意に思います。

よほど幸運な育ちでもない限り、

幸せも意図的に持ってかないと気づきにくいし、

体感も難しくなります。



僕の幼少期のしんどい生い立ちが役に立っていることがあるとすると、しんどいが故に猛烈に幸せについて考えまくったと。



思考も大事だけど、やっぱり身体が大事だぞ、とか。

それ、幸せ勉強してった先に出てきましたからね。

身体が幸せを作ってると思ってる人は、一般的な人であんまり見たことがないです。(そんな話しないだけかも)



一方で、幸せになれるっぽい通説は、

結構、共通認識であったりしますよね。


例えば、子供の頃から英才教育を受けて、

中高一貫の進学校に進学。

偏差値の高い大学に入学し、大企業に就職。



これ、昭和から脈々と受け継がれてきている、

親が用意したがる幸せのルートです。



まあ、まずは客観的な条件(お金やステータス)が揃えば幸せになるぜってことです。



学歴なんて関係ないと、

学歴が高い有名人やビジネスマンが語ってますが、

実際は学歴高い人は頭が良い確率は高いし、

仕事だってできる人が多いです。



社会的な成功してる人を見ると、

変わった職業に特化してない場合、

大概は、高学歴です。



そりゃ、親だってそっちが幸せだぞ!

と、冒頭に挙げたコースを用意したがりますよ。



では、社会的に成功している人と、

高学歴な人が全員幸せでしょうか。



即答で違うな。って思いませんか。



実際に社会的に成功してたり、高学歴な人も

幸せな人も沢山いるでしょう。



でも、全員じゃないし、むしろ苦しんでる人だっているでしょう。



それは、

モテるに置き換えてもいいし、

フォロワー100万人でも良いし、

容姿が半端なく良いでも良いし、

お金持ってる(宝くじや遺産とか)でも良いし、

誰とでも友達になれるに置き換えても良い。



確かに客観的な条件が揃うと、

幸せになれる確率は上がるかも知らないですが、

幸せになれるということではありません。



冒頭の親の用意するコースでも、

「幸せになって欲しくて」、

用意したわけですが、



きちんと幸せについて語られたり、考えられたりしないんですよね。



そして、その勉強しないで、

客観的条件だけ揃えといても、

幸せになれるのかなー?と思うのです。



条件を揃えるゲームと、

幸せで在るゲームって、

重なる点はあるけど、究極別のゲームです。



いわゆる客観的な条件が揃わなくても、

幸せな人は間違いなくいますよ。



だとしたら、別軸でしっかり考える。

幸せを考えないでどうする?と。



でも、なぜか幸せについて語ることは、

「ダサい」ことの領域に入れられていると

思いませんか?



自己啓発がダサいと思われているのに近いのかな?



心が弱い人が幸せについて考えるとか?



いや、心が弱いから考えるのは当然だけど、

みんな幸せになりたくて、何か頑張ってるんじゃないたろうか?と、思ってしまいます。



もったいないなあ。と。



僕は幸せについてたくさん考えてきました。



それは、冒頭でも書いた通り、

生い立ちが半端なくしんどかったので、

トラウマの処理に20年くらいかかったから

だと思います。



その分遠回りもしてしまいましたが、幸せについての知見はかなりあるなと言ってもいいと思います。



執着が減る方が、何かをたくさん持ってるより幸せとかね。実感レベルで思うし。


身体が変わると、自動的に思考は前向きになるので、

まず、身体からアプローチした方がいいとか。


自分のためだけに生きるより、

他者のために生きた方が、結果幸せ度上がりそうだぞ?とか。(実験レベル)



とか。


まあ、本当に考えた方がいい。

どうでもいいソシャゲーやってる場合じゃない。(もちろんやってもいい)



いずれにせよ、日々の地味な修行は必要なんですけどね。



もっと、幸せについて考えて、

幸せを自分で定義して、

そこにエネルギー使った方がいい。



本当にいろんな情報がたくさんあるからこそ。



自分で決める、見つける、動くですね。