娘を育てて思うことがあります。


彼女はまだ評価社会の中にいないけど、

この後否応なしに評価社会に取り込まれていくんだなーと。


我が家や、保育園で勝手気ままに生きていても、

やっぱり学校教育にぶち込まれるあたりから、

評価社会が始まるよなあと。



あいつが上だとか、下だとか、

優秀だとか、劣等だとか、

頭が良いとか悪いとか、

運動神経が良いとか、悪いとか、

人気があるとか、ないとか



それが、今の時代はSNSでやたらと

数値が可視化されるとまで来ている。



僕はほぼSNSやらないし、

情報に触れようともしてないけど、

世代的に触れることが当たり前になるのかあ。


って思います。



とはいえ、

この評価社会に組み込まれるのは、

社会で生きていく以上不可避なのは事実。



それなら、有無を言わさず、

その評価社会にのっとって、

ズタズタにされながら、

他人の評価に動かされて生きていくのか。



それは、やだよ、って思います。



どの時代も人間が集団を形成すれば、

逃れようもなく、評価社会を生きる。

なぜなら、人は人を評価する生き物だし、

ヒエラルキーを決定するには評価が必要だから。



でも、

幸い、頭の中は侵入されないんですよね。



どんだけ他人が評価してようが、してまいが、否定的であっても、自分の頭の中には侵入できない。



つまり、これは自分の中の優しい意識を育てること

そのものなんですが、優しい意識を育てておくと、

評価社会の中でも泳ぐことが出来ますよ、と。



評価社会のシステムには形上乗っかるけど、

最終のところで乗っからないと言いますか。



参加したくないマラソン大会には

参加させられるかもしれないけど、

順位以外の楽しみ方を見つけてくといいますか。



あの街走るのが楽しいな、あの景色綺麗だなとか、

そっちを大会に参加する意味の方に持ってくとかね。



1位になりました!記録更新もいいけど、

彼のマラソン体験はこんな面白い面あったらしいよ!

面白い発見だねー


という楽しみ方もありますわ。いや、参加の仕方もある。



参加したくもないレースに

参加させられるなら、それくらい自由に

していたいですよね。



うちの子にも、まじで優劣、順位レースとは

全く別の基準で自分を大切に出来たり、

自分のことを認められるようになってほしい。



なんなら、娘の友達もそうなってくれって思う。



どんなに才能あっても、

評価社会の中で順位レースだけやらされたら、

まじできついと思う。才能ある人山ほどいるから。



いわんや、僕の様な凡人おや です。



前回書いた、自分を薄くするということに

ついて、少し言語化できる様になりました。



自分の頭の中、めっちゃ優しくしていく

一方でどんどん自分を薄くしていくと。



これ、矛盾してるけど、

自分のことをめっちゃ大切にするからこそ、

相対的な自分に重きが置かれなくなる。



という構図なのだなと。



逆に自己否定が半端ないと、

相対的な自分が全てにもなりうる。

だって、確かめるものがないからね。



評価社会は人間の本能にも根ざしてるから、

避けようのないものだと思います。

自分だって他人のこと評価してますからね。



でも、その評価社会はハマるものではなく、

すらりすらりと、泳ぐものだと。



特に僕の様な凡人は泳がないと。

評価社会で勝つは、無理ですからね。

そういう人いっぱいいるけど、

受け入れられなくて苦しんでる気がする。

だから、泳いでほしい。



娘にそういう話をしてもきっと意味はないでしょう。



そんなことより、親が楽しそうとか、

家が平和とか、親が評価社会の基準で、

自分を判定してこないとか、そういうことの方が、

きっと実感値が育っていくと思ってます。



つまり、僕次第なんですよね。



そして、大切なのは、

評価社会の中で、評価を気にしてしまう自分が

発生して来ても、その時こそ、


評価気にしちゃうの、かわいいねー

どんどん気にしていいよ!



で、包んでやること。