どうでも良いわ


という感覚。

投げやりなようにも聞こえるけど、

実は最も自由な状況下ではないか?


と、思えてきました。



どうでも良いわ


は、フラットな状況。

どうなってもOKと。



「どう」でなきゃダメ

「こう」でなきゃダメ

「ああ」でなきゃダメ



こう言った概念のため自縄自縛。



それ、今の時代を生きている人の

特徴なのかもしれないと思ったり。



情報が多すぎて、

選択肢が無限に感じる時の方が、

人は不自由を感じるのかも。



なんにでもなれそうで、

実は、なんにでもなれるわけでもない現実。



あなたは〇〇しか選べません。



と、言われて実はホッとする人は、

多いのかもしれないです。



僕は自由が大好きで、

最も大切にしている価値観な気もします。



一方で、自由というのは、

自分で決めて、時に諦めるなんてことも、

必要になります。



どうでもいい



という感覚は、この世界をすべて

コントロールは出来ないが、

大きな流れは信頼している。



そんな感覚に近い気もしていて。



だから、どうでもいいよ。

君がわかる様な小賢しい理屈では

わかりませんよ、と。



「どう」が、良いかは、

後にならないとわからないよ、と。



先日も書いたように、

どうでも良くないの裏には、

執着がびっちりはりついてます。

ぬめぬめとね。



『執着を軽く捨てていく。』重いというのは、色々と生きにくい。軽さが必要か何だなーと、最近、改めて思うようになりました。エネルギー的なものでも、感情的なものでも、身体的なものでも、重くな…リンクameblo.jp



だから、願いや望みを持つことも

すごく大切なことだけれど、

願いや望みに付着しやすいこの執着というもの。


ある種、セットでくっついてくるもの。



これをホ・オポノポノで、

淡々とクリーニングすることが、

大切だなーと、思ってます。



執着という粘つきがなくなった

スキッとした願いや望みというのは、

叶いやすいなと思ったりしています。



皮肉ですけど、

執着なくなっただけで、かなり幸せですよね。



そして、やっぱりその執着すら、

悪とはせずに。



その執着こそ、愛でる様に。