僕は、つまんないことが嫌いです。
そして、めんどくさいことも嫌いです。
でも、つまんないことも、めんどくさいことも、これでもかって程転がってますよね。日々の生活に。
あー、つまんねー
あー、めんどくせー
という回数が増えてるとしたら、
一つ考えた方がいいのは、
もしかしたら、自分自身の頭がどんどん、
つまんな脳、めんどくさ脳になっている可能性がたかいということ。
なぜそう思うかって、
僕が、すぐそのつまんな脳、めんどくさ脳になるからです。
で、どうせあるつまんないこと、めんどくさいことを上手く乗りこなすには、遊ぶしかない、と。
遊びに変換するしかないんです。
そう考えると、日々の生活は遊びの同情みたいなものですね。次から次へと、つまらないことや、めんどくさいことが飛びかかって来ます。
ちょっとした皿洗いから、買い物や、
風呂に入るのも、つまんなくなったり、めんどくさくなったり。
だからこそ、このつまんなかったり、めんどくさいことは遊びに出来ないのか?と、考えてみる。
全く意味なんて求めなくていいし、生産性が下がったって、それをやってみる。
皿洗いを利き手じゃない方でやってみるとかね。
意味ないし、スピードも落ちるけど、いつもと違う感覚が面白いかもしれません。
だから、合気道の様にほっといてもぶつかってくるつまんないことや、めんどくさいことは、遊びに変換するチャンスなのだと。
今の途轍もなく便利な暮らしは僕らから遊ぶチカラを日々失わせてくれています。
だっていつでも、楽しませるのは送り手の仕事じゃないですか。お金払わなくてもね。無料でアプリでもなんでも、退屈しない時間を作ってくれる。
確かに便利で楽しめる情報?も、増えてるのかもしれないけど、多くの人は、本当はすごく退屈している様に見えるのは、実際自分で面白がる筋肉が落ちてるからなんじゃないかと思うのです。
そういう意味で何でも遊びに出来る人はつまらないこと、めんどくさいことでも、遊びに出来るんだから、主導権が自分にあって最強と言えば最強です。
そして、遊びの最高の道場って仕事ですよね。
キレイゴトを抜きすれば、ほとんどの人は仕事はそんなに面白くも楽しくもなく、なんならつまらなくて、めんどくさいものじゃないでしょうか。
もし、仕事がほっといても、面白くて楽しいのなら、もっと多くの人は楽しそうに仕事の話をするだろうし、もっと仕事させてくれよ、とも思うでしょう。
周りを見渡す限り、そんな人は限られていて、
ほとんどの人は、面白くも楽しくもなく、さらに言えば苦痛でしょうがない仕事をしてたりするのです。
でも、本能が嫌がる苦痛を感じるレベルでもなく、
何となくつまんねーな、面白くねーなー、くらいなら、遊び道場としてはもってこいです。
遊びにするチカラで、日々の仕事を遊びに変えて仕舞えば、あのつまらなくて、退屈で、めんどくさかった仕事は、文字通り遊びになります。
苦痛で苦痛でしょうがないってわけじゃなく、
漠然た仕事が嫌だなって人には最高の同情なのかもしれません。
だから、まずは些細な仕事から、遊びに帰る。
リモート会議の最中、メンバーのそれぞれの表情を見て今はどんなこと考えてるのか?真剣な顔してるけど、頭の中では好きなアイドルのこと考えてるのかも、とか想像してそれぞれを見てるとちょっと面白くなったりね。
仕事には何にもプラスはないですが。(むしろマイナスかも)それでも、一つつまらないが面白くなれば、その人の活力は増えますから、その後の仕事が案外スムーズにとりかかれるかもしれません。
上のくだらない例でも、その人の中で遊び化が成立した瞬間に、一つ能動的に主体性が成立したということになります。
この、主体性こそがつまらない、めんどくさいだらけの世界を生きていくために数少ない必須スキルなのではないか? とすら思います。
将来のために興味のない資格取るよりも、遊びに変えるチカラ鍛えた方が圧倒的な価値があると思います。
遊びかどうかは自分が決めます。
これは、遊びだ。と自分が決めるとそれは遊びになります。
だから、何でも遊びなのだ。と言い放つことは大切かもしれません。自分で言い放つ。遊びだと。
つまらないこと、めんどくさいことがあると、
それは、遊びに変える道場として、遊び力を鍛えるチャンスです。
まあ、これは僕が僕自身に言い聞かせている話ですね、すーぐつまんなくなっちゃうから。
嫌いなこと、苦手なことはやる必要ないと思いますが、つまらない、めんどくさいレベルは遊びに変えてしまった方がお得です。
子供の時から、青年期、大人になる過程で、遊び力ついてる人は、その遊び力は宝です。
そして、遊び力つかなかった人も、今日がその遊び力を鍛える1日目に出来ますね。