感情のことを考える。


大切にされる感情とそうじゃない感情がある。

大切にされる感情とは、快感をもたらすもので、

そうじゃない感情とは、不快をもたらすもの。



そんなカッキリと、分けることは出来ないだろうけど、それくらい不快な感情は不快だから、出来ることなら避けたいものだ。



でも、不快な感情はちゃんと発生する。

狙いすましたかの様に。

せっかく快の感情に浸って心地よかったのに、

不快は突如として訪れてその渦に飲み込んでしまったりする。



だから、なるべくなら不快を撲滅する方向に持って行きたくなるんだが、それだと多分全体性としての自分は安心しない。



自分の一部を切り落として安心することは難しいのだ。



なぜなら、いつ訪れるかわからないその不快に怯えないといけないから。



排除したはずのものは、また来訪して不快をもたらす。



切り離したはずのものはべっとり背中に貼り付いていたというオチになる。



自分を愛するのが難しいのは、

この不愉快な感情まで愛でるのが難しいからだ。



私は私を愛している。

但し、自分に都合の良い部分だけね。



と、なっているから、

そこから外れると途端に愛せなくなる。



自己肯定感の脆いところはそこらへんで、

都合の良いところや、長所を見つけて

肯定していても、都合の悪い部分や、短所が見つかると無かったことにされてしまう。



だから、やっぱり自己受容の姿勢なんだと思う。



どっちの自分も受け入れるよと。



都合の良いお前も、都合の悪いお前も。

どっちも、受容していくよ、と。



そうやって受けれられることほど、本当に安心することはない。



他人に対してはお互い様で、

条件付きの愛情でやりとりするのは、

仕方ない。



でも、せめて自分と自分のコミュニケーションは、

自己受容的でありたい。



全感情は、心地よくないものが多分に含まれている。

だから、全感情を引き受けるには愛情よりも勇気がいる。



どんな感情も受け止める勇気。



それは、きっとはい!今日から勇気出します!


っていって出る類のものではないでしょう。

日々、不都合な感情を受け入れていくことで、

段々と育っていくものの様に思う。



勇気は育って、受け入れられる感情のバリエーションも増えていく。



そんな感じで自己受容は進むのだと思う。



だから、コスパ的な効率ばかり気にしてたら、

きっと自己受容は進まない。



超めんどいけど、それは本質的な安心をくれるもの。