しょぼいのは嫌だ。
というのは、誰も思うでしょう。
だから、しょぼいよりは、すごいでしょ?
ってな具合に多くの人が、すごくなろうとしている。
すごい方が儲かるし、
すごい方が尊敬されるし、
すごい方が人気もでるし、
となれば、
そりゃすごい方へいこうとするわ。
多くの人がすごい人になろうとしているから、
すごいの領域は、もう混雑が止まらない。
で、驚くことにそのすごいの列に並んでいるのに、
実は多くの人はそんなにすごくないのです。
最近、思うのは、
誰かと語ったりして楽しいとか、
面白いなーとか、満足するのは、
お互いのしょぼさを共有できている時な気がする。
反対に、遠回しにでも直接的でも、
すごい合戦が繰り広げられる場は、
すごい疲れます。笑
しょぼいの力は、人を少しホッとさせる。
あいつもしょぼいから、おれもしょぼくていいか。
と、思えたりもするからだ。
あいつもしょぼいけど頑張ってるなもいいし、
しょぼいんだから、無理すんなよもいい。
すごい人のストーリーは派手だし憧れの的になる
だから、テレビをはじめとしたマスメディアで
取り上げられるのは、すごい人たちだ。
でも、多くの人はどうやら、すごいどころか、
しょぼいらしい。しょぼいなりにやっている。
そのしょぼさを面白がれたり、
しょぼさを笑い合えたり、
しょぼいままを受け入れられたなら、
いわゆる心理的安全性ってやつは、
確実につくられていくんじゃないだろか。
すごくなくていい場所が家庭にあれば、
子供も大人もその家に帰りたくなるだろう。
結構バカバカしいようで、
しょぼさは、バカにできないぜ。