世界には、あまりにも「意味」のあることで、

多すぎる様に感じる。


それは、価値があるのかないのか。

数字は伸びたのか伸びてないのか。

売上は上がったのか、下がったのか。



いろんな意味だとか、目標だとか、

目指すところだとかを人間社会では、

めっちゃくちゃ考えるようにできてる。



「意味のない」こと考えてることが罪だぜ

と言わんばかりに「意味」は暴走している。



そんな「意味」の世界にいると、

だんだんと、やる気もなくなるし、

あらゆることが、めんどくさくなる。



「意味」うるせー!状態になっていく。



そこで、必要なのが、

「無意味」なことをひたすらやる。

という体験だったりする。



定期的に、自然に触れたくなるのも、

圧倒的な「無意味」に出会えるからだ。



ただ、風が吹いて、木の葉かそよいで。

雨が降って、しとしとと。



雨の音を聞いて散歩をして。

意味のない、しかも不規則な音を聞いていると、

自分の深い部分が癒されていくことを感じる。



あー、なんでもいいやん。



という気持ちにさせてくれる。



年々、いわゆる人間社会的なことが好きじゃなくなり、自然的な無意味な世界のことが、好きになる。



でも、これだけ無意味が僕に与えてくれることは、

すでに僕にとっては「意味」のあることに

なってしまっているとも言えるのだ。



「意味」とは、「目的」と言ってもいいかもしれない。


なんにもならないけど、やる。



って、子供が1番得意としている分野だ。



なんにもならないけど、絵を描くとか。砂遊びするとかね。



砂で作った何かはその日のうちに壊されたり、

次に公園に行った時には形をなくしていたり。



なんにもならない


が、苦手になったのは、


金にならないか?


という問いが自分の中に生まれやすくなったから。

お金にも、将来のスキルにも繋がらない、


なんにもならない


は、現代人にとっては、1番怖いことかもしれない。


でも、実は、


なんにもならない


ことこそが、1番生命力を回復させるものだったりする。


なんにもならないことをしても、

たった今、その場で完結していく。


でも、心の中は「なにかになりそう」なことを

している時より、満たされていく。



この、無意味、無目的のことは、

ずーっと考えてきた。そのことを考えることが、

とても楽しかったから。



やっぱり、無意味なことをすると、すごく元気になる。


なんにもならない


ことの多くは、「やりたい」と思ってることだからだと思う。


「やりたい」けど、「なんにもならない」。



これ、宝物ですよ。



時間があったら、やった方がいいのは、

この、


なんにもならない、無意味、無目的な時間。