もっと真剣にやりなさい!
そんな風な台詞を沢山浴びせかけられれば、
真剣にならないこと=怒られること
真剣にならないこと=ダメなこと
真剣にならないこと=悪
くらいな感覚になっていく。
教育とは実はおっかないものだ。
真剣にやらないといけないという思い込みが
あると、何事も行動を重くさせてしまう。
つまりは、真剣さは、
失敗が許されない感覚
を生んでしまうということ。
漢字の通り真剣だから、間違うと死ぬぜ!
いっていう意味がを思い浮かべやすい。
失敗してもいい、
間違ってもいい、
ヘタこいてもいい、
っていう感覚がないと、中々行動ってできないものだ。まず、やってみようという感覚にはなりづらい。
映画ひとつ観に行くのでも、
失敗が許されない感覚があると、
どうしても、リサーチして「確実」に面白いことが、
予想されるものを観ようとする。
そうすると、映画館には足が運びづらくなるし、
レンタルも中々面倒になってしまう。
つまんなくてもいいや
っていう感覚があれば、
まず、映画館に行くことが出来て、
映画を観るという「体験」が出来る。
真剣になりすぎると、
「面白くなかった」時のショックは、大きい。
つまり、期待がどんどん大きくなる。
「こうなってほしい」が、強くなるから、
それが得られないとショックを受ける。
自分で期待という種をまいて、種が爆発して、
その衝撃を食らっている。
客観的に見ると、実は滑稽ですらあります。
種を蒔かなきゃいいじゃん。
っていうシンプルな話ではなく、
僕たちはそれだけ何かに期待するように
脳のシステムが働きやすくなっているということ。
そして、それを強く助長しているのは、
他でもない「真剣」さだったりする。
なんでも手を抜いて気軽にやればいい、
ということではなく。
もっと、一個一個の行為や、その結果に
対して、真剣にならない。むしろ、軽く見る。
これを考えた瞬間に「罪悪感」が出てくるとしたら、
間違いなく「真剣病」にかかっていると
言ってもいいかもしれない。
そんなに全てのことを「真剣」に受け止めていたら、
生きるのが苦しくなってしまうのは当然。
人類の歴史や見れば愚かなことの方が圧倒的に多いのに、どうして一個人が、そんなに「真剣」にならないといけないのだろうと。
真剣勝負
という言葉のある通り、たしかに「真剣」が求められる場面はあると思うけど、それは自然ではなく、むしろ不自然な状況と言えるわけで。
あの心理状態は、非日常の一時的に発揮するものであり、それを日常から、やっていれば、
サッカーのW杯で、才能に満ちた選手が、
普段ではあり得ない様なミスをしたり、
パフォーマンスが低下する様なことが起きるのも、
極端に言えば「勝たないと終わりだ!」という
プレッシャーをかけられているから。
つまり、目的は「試合に勝つ」ことなのに、
「真剣」さだったり、「勝つことを義務づけられる」ことにより、かえって身体は硬直して、動けなくなってしまうのだ。
こういうことは、本当によくある。
建前が大切なされて、
それによって、本当の目的が無視される
ということがよくある。
真面目さだとか、真剣さの奥にある、
重すぎる想いによる「期待」が、
かえってその人のことをしばりつけているなら、
僕はむしろ、「真剣」なんて、捨ててしまえばいい。
と、すら思える。
捨てることは難しくても、
ゆるめていくことは、出来るのではないか。
それには、その先にある失敗を受け入れていく、
ということでもあるのだと思う。
とにかく手数を打ってしまうことになれれば、
一つ一つに対する「真剣」さは、減って行く。
やがて、それが木刀になり、おもちゃの剣になれば、
一つ一つの行動は気軽になる。
行動を重ねて行って色んなことが起きて、
それから、いろんなものが統合されて行くと、
全体を見渡せるだけの俯瞰した目線と、
一つ一つの出来事にへこたれない強さも身についていくのではないか。
自分を縛る思い込みを僕たちは沢山抱えている。
特に日本人は、多くの〇〇してはいけないだとか、
〇〇にならないとダメ!を抱えている。
それで健やかに生きていけるのであれば、
それでいいけど、周りを見渡しても、
それが、あまり良い方に働いている様に思えない。
だから、一つ一つ本質的に幸せを生まない
思い込みを剥がしていきたいと思う。
それを剥がして行く上で、それも真剣になると
元も子もないわけで。笑
もっと、遊び感覚で、
いつのまにか思い込みが変わってた!
っていう方法はないかと考えているのです。
それも、軽く実験していこうと思う。