ご飯にも味があるけれど、

人間にも味があります。

全国チェーン店が出来て、
様々な地域で、同じ味が楽しめるようになりました。


それと同じように、人間も全国チェーン展開する気ですかい?

って位、この国の教育は、


みんなと同じ


を至上主義として、
みんなと同じかどうか?
を監視し合い、
みんなと同じじゃないと、
怒られたり、バカにされたり、見下されたりする。


。。。


つまんねー!

って思うんですよね。
そういう形。


幸せとかの定義も


この、みんなが思う幸せ

っていうのがベースになっているから、
欲しくもないものを選んでしまったり、
持っても嬉しくないものを欲しがって、
挙句に持てなくて、悲しくなったり。


その人がその人の味がいいと思えれば、
その味がいいと感じてくれる人が現れる。


その人が自分の味を隠してしまうのは、
極めてもったいないことと言えるでしょう。


個性と言うと、

いわゆる個性的と称される、
派手で目立つ!
みたいなことを設定してしまいがちですが、


それも、
予定調和の普通の個性的に当てはまるわけで。


個性は全人類、もれなく付与されてます。

同じ人間がいないということは、
全員違う人間であり、

違うということは、個性があると言えます。


これは、


自然でいる


ということです。


何を好きかの中にも、
個性が出て来ます。


好き嫌いの組み合わせは、
人によって無限の組み合わせになり。


自分と全く同じ趣味の人間なんて
いないわけです。


選択肢が、100とか、1000とかになると、


まず、どれかの趣味が違うことになります。


その必ず出てくる違いが、
その人の味になります。


そこを否定して、


世間一般の

普通だとか、
成功だとか、
幸せだとか、


を選ぼうとすると。

満足も出来ずに、
獲得も出来ずに、


なんぢゃー!!

という日々が続いてしまいます。


世界を舞台にしたい人もいるし、
近所だけを舞台にしたい人もいる。


世界を舞台にしている方が価値がある!

ってなりがちだけど、


本当は自分に合ったことをしている方が、
価値がある

その人にとってはね。


みんなが同じような価値を信じ、
その価値からズレないように


そんなくだらない時間より、


自分が満足できる選択を


それが自分の味になり、

その味を愛してくれる人も出て来る


まともになる必要はない。