性善説と性悪説があります。

どちらが正しいかなんて、誰もわかりません。

どちらの見方でいると、楽なのか?を考えてみます。



結論から書きますと、最悪説の方が、

少なくとも、この社会では生きやすいな、と。



反対に性善説でいくと、

かなりガッカリすることが連発するよ、

ということになります。



一時期歴史の勉強をしていた時に、

まあ、ほんとひどいことするなー

って、いう歴史ばっかりなんですよね。



文明が拓けてなかったというのも

あるかもしれませんが、

結構な確率で人はそっちに寄っていくのだと、

欲とか利権とかそっちの方。



逆に言えば、それが自然なわけですから、

ことさら驚く必要もないと言えばない。

性善説に根ざすと、人の醜い部分を見るごとに、

ガッカリするという事象が起きます。



全てのガッカリの裏には期待がありますから、

性善説は常に他人に、そして自分に期待し続けることになります。そして、その期待に適わないと、

結構断罪したりしますよね。笑 どないやねん。



僕は不幸の原因の多くを占めているのは、

期待だと思ってます。ことさら人間関係では。



この期待が減れば減るほど、

他人にガッカリしたり、イライラしたり、

なんでそうなの? とならなくなります。



道徳をすごく信じている人と一緒にいると、

すごく息苦しくなるのは、その道徳的観点から、

期待されて、裁かれているからですよね。



僕が、道徳が苦手なのはそこですね。



そもそも人はしょぼいし、裏切るし、冷たくもなる。



くらいに思ってた方がいい。

すごく悲しい観点の様に見えますけど、

視点をすごく低くしておくと、



ちょっとした優しさとか、温かさとか、親切に感動するんですよ。



全体が前者だから。



反対に、人は優しく、温かく、親切であるべき。



とか、思ってると、ギャップばっか感じて、

人が嫌いになりますよね。早めに。



で、です。



最悪説を前提に生きつつですよ。



その上で、「いい人」を見つけるのが良いと思います。

「いい人」は、愛情豊かとか、別の言い方も出来ますが、とにかく心が満たされてる人です。



心が満たされてると、自動で人は優しくなります。

マジで、自動。



反対に心が満たされてないと、かなりの確率で、

人は意地悪になります。これもほぼ自動ですね。



自分自身を振り返ってもそうじゃないですか。

心が満たされている時は、幸せそうな人見ても、

良かったねーとか思うのに、

心がカラカラの時に幸せそうな人見ると、

あいつばっかずるい


になります。

これ、同じ人間の中に発生していること。



だから、性悪説を採用するのは、

残念ながら社会的にあまり心が満たされている人が

少ないからとも言えると思います。



ちょっと角度を変えてみると、

自分に対しても、性悪説の方が楽なんです。

性善説で、自分を見ると、いろいろ許せないから。



こんなに煩悩だらけの自分はダメ!

と、なっちゃいますよね。



でも、煩悩だらけの自分、かわいい。



と、なれば、性悪説から起点に、

自分を許して時に、煩悩も手放せることも

あるかもしれません。



むしろ、自分を責めている時こそ、煩悩は肥大化していきますね。



何事も、僕はいろいろ試した結果、

性悪説を起点に生きた方が楽だということが、

わかりました。



性善説の方が楽な人はそっちの方が良いでしょう。



いい悪いではなくて、楽か苦しいかだけの視点で書いてみました。


僕の中では、

自分なんて大したことないは、別名性悪説。