2019年大晦日は、浜崎あゆみのカウントダウンライブに行ってました。
そして、そこで 2020年を迎えました。

2019年の大晦日に浜崎あゆみのコンサートを選び、行ったことを誇りに思う。なぜだかそんなことを思っていました。
すぐ側の NHKホールでは紅白歌合戦が行われ、ライブの帰り道では東京事変の復活を知りました。とうとう私は世間から切り離されてしまった?
しかし、2019年の大晦日に浜崎あゆみのコンサートを選び、行って良かったという確信がなぜだかいつも以上にあったのです。浜崎あゆみにとっての聖地、代々木だったからかも知れません。
時代の流れは激しく、「多様性」という言葉の波に飲み込まれてしまいそうになるときもあります。
しかし昨年、「死神」という曲で<いつか男とか女とか関係なくなるくらいに愛し合おうよ>と歌っていた大森靖子が、ライブの MC で「男とか女とか私は大事だと思っていて…」と語っていたことが忘れられません。そう語る大森靖子は、勇気が要ったでしょう、覚悟が要ったでしょう。
“革命は、いったい、どこで行なわれているのでしょう。すくなくとも、私たちの身のまわりにおいては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています。海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。”
(太宰治『斜陽』)
海の表面の波は何やら騒いでいる。けれど、その底の動き。私はそこに注目し、あゆのライブではそれを感じたのかも知れない。底の海水が動いていると。でも、あゆのライブや音楽はいつもそうだったなぁ。
時代とかいろいろ変わっていくけれど、あゆはやっぱり「変わらないこと」を歌っているんだなと思った。
紅白での MISIA や氷川きよしのパフォーマンスが話題になっていた。それについていろいろな議論が巻き起こっていた。
それを見て、あゆも昔からやってるのに、あゆのときは見向きもしなかったじゃないか!という思いがないわけでもないよ私も。
けど、それは時代の流れやタイミングもあるだろうし、そんな自分の嫉妬や僻みに飲み込まれてなるものか!というのもあるから、考えてみた。
(でも、レインボーフラッグや LGBTQ が世間(ここでは紅白)でも話題になるころ、あゆはそこにいないっていうのも、あゆらしいというかなんというか…)
例えば、あゆも昔からドラァグクイーンのパフォーマンスと共にステージに立ったりしている。ライブだけじゃなく、テレビでも。けど、
「あれは多様性へのメッセージだ!」
「いや、逆にあれは搾取だ!」
とかそういう議論がそこまで巻き起こってなくない?
(これは、最近やっと話題になってきたというだけで、浜崎あゆみに限った話ではないかも知れないけど)
それが良いことなのか悪いことなのかは今でもわからない。けれど、利用している・されているの前に、みんな知らず知らずのうちに力一杯楽しんでいたら、自然に受け入れ合ってるというか共存していた。浜崎あゆみ一座には昔からフッツーにいろんな人がいたけれど、表立って議論が巻き起こるでもなく、みんな力一杯楽しんでいたら、気付いたら共存していた。自然に。当たり前かのように。
議論を巻き起こす(巻き起こる)ことも凄いことだけど、議論が表立たず、気付いたら共存していたってのも凄くない?
“闘い方とは何なのか”
と考えてしまう。
でも、だから、浜崎あゆみはバカにされたり軽視されたり見過ごされたりするのかも知れない。そして、私にもそのコンプレックスがあったんだ。
議論を巻き起こす方がかっこよく見え、戦ってると見え、社会派とされ。「浜崎あゆみは社会的なことを歌わない」と言われたり。それで私も、あゆだってずっと歌ってるのに!なんて思ってしまったりしていたんだ。
けど、それが浜崎あゆみの凄さであり良さなんじゃない?
だから逆に、社会の動きとかで気付かされる。ああ、それ、うちらもうやってたわって。力一杯楽しんでたら、自然と、気付かないうちに、それが当たり前かのように、やってたわって。
議論をすることは大事だ。でも、議論が目的なのではない。いや、議論をすることの目的は?だ。目的はもっと先にある。
(だから私は、あゆだってやってるのに!と思うよりも、同じ目的を感じられることを喜びたい)
レインボーフラッグは誰のものか問題――議論は巻き起こって当然だけど、みんなが「自分のものだ!」と主張してるように見えるときもある。
本当は浜崎あゆみだって議論を巻き起こしていると思うんだ。けれど、それよりも「楽しい」が勝っているというか。メッセージがあるのに、メッセージ性に回収されないパワー?
前に私は、浜崎あゆみも大森靖子も「差別反対!」とか言わなくても「あはは~!」とか笑いながら、精一杯楽しもうとして、気付いたら差別やおかしなルールを解放していた・・・みたいな、そういうところがあると思うと書いていた。
でも、それは、何も考えてないんじゃなくて、みんながそれぞれ自分自身で考え、感じて、議論もちゃんと巻き起こって、お互いを全力で知ろうとして、そうなっているんだって。
もしかしたら、それが「楽しむ」ということなのかも知れないし、私は代々木で、そういう「底の動き」を感じたんだと思う。
浜崎あゆみは昔、何で闘う?と聞かれて、『共存』と答えていた。
私は知らず知らずのうちに浜崎あゆみから『共存』という闘い方を学んでいたのかな。
そういえば開演前、ずっとビリー・アイリッシュがかかっていたよ。
そして、あゆからのビッグニュース。
私は浜崎あゆみと、これまでもこれからも、
ずっとずっと向き合っていきたい。
今年もよろしくお願いいたします。