椎名林檎ライブ後記 ~音楽と自我~ | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

椎名林檎のライブ記事にセットリストの間違いを見つけて、直しながらいろいろ調べてたら気づいたことがあった。

これは誰々に提供した曲、これは CM に書いた曲、これはカバー曲、これはコラボ曲? これはオリジナル? これは誰の? とやっていたら、これはもう、「これは誰の曲」といったライブじゃないんじゃないか?って。

確かに、ライブがはじまった一曲目「本能」で、私は、自分は Mummy-D(ライムスター)のライブに来たんじゃないか?と思ってしまった。なかなか椎名林檎の姿が見えないし、そもそも椎名林檎が出てきたのは途中からだというのだから。他にも、浮雲が歌う曲もあったし、他の歌手に提供した曲にカバー曲。

おいおい、私は誰のライブに来たんだっけ?とも言いたくなる。

しかし、その「誰のライブ」というのはなんだろうか。

椎名林檎はそういった「誰の曲」であるかとか「誰のライブ」であるかといった定義を越えたところでライブをしている、また、そういったライブを実現してみせているのではないか。

いやしかし、これはわからない。今回は 20周年ということで特別だったのかも知れない。
何しろ私は 12年のブランクがある。その辺は椎名林檎のライブに行き続けてる人の話を聞いてみたいところではある。

しかし今回は、その音楽が「誰の名義」であるかとか、「自分の曲を作って自分で歌う」というライブの決まりみたいなものから解き放たれたところというか、そういう決まりみたいなものを壊してるなと思った。そしてそれをちゃんと成立させている。しかも、壊したとはわからないように、自然に楽しく。これは凄いなと思った。
(そんな椎名林檎はデビュー当時「自作自演屋」と名乗っていた)

そういえば、浜崎あゆみのライブでも、あゆが歌わずにコーラスの人が一曲丸々歌うことがあったりして、そんなとき、「これは誰のライブだ!」とか「私は浜崎あゆみのライブに来ているのだ!」とかいった声があったりするなぁ。

椎名林檎のセットリストを見直してたら、「これは誰の曲」といったことはそんなに重要じゃなく思えてきた。

今回は特別なだけかも知れないけど、でも、ずっと椎名林檎に抱いていた疑問やら何やらが、あ、そういうことだったのかも?と見えかけた気がした。

こういうライブもあっていいんじゃないか。
こういう音楽の生かし方もあるんじゃないか。

それが時に、ずるく見えてしまったりすることもあるかも知れないけど、椎名林檎にはやっぱり、守りたい音楽があるのかな。

「誰の曲」とか「誰のライブ」ではない。
自分が!自分が!ではなく、「音楽」を。

自我ではなく、「音楽」を。

しかし、

自我から逃れられないのもまた、「音楽」である。

と、私は持っている。

だいたい椎名林檎だって「これは椎名林檎にしか出来ないライブ」とするならば、そこに自我があるということにならないか。

以前、「大森靖子は器用、浜崎あゆみは不器用」と言った友達がいた。

でも私なら、「椎名林檎は器用、浜崎あゆみは不器用」と言いたいかも知れない。

もちろん、それぞれに器用なところ不器用なところがある。

私は、「自我ではなく音楽」と「音楽は自我から逃れられない」という二律背反を椎名林檎と浜崎あゆみから感じているのかも知れない。

そして、大森靖子だ。

一昨日、大森靖子のライブに行ってきた。

そしたら、大森靖子はこんなことを言っていたんです。

私の記憶で書きますが、

「前は、自分が自分がってなるのがイヤで自分のことは書いていなかった。人のことばかり書いていた。けど最近は、自分のことも書こうと思って書いた」

「音楽でつながると言ったって、音楽だけでつながるって、そんなのウソじゃないですか。だって、私という実体はここに存在しているのに。だから、音楽でつながるときは私も一緒です」


(これは私の記憶で書いているので、大森靖子の発言とは違うかも知れないので、私の発言として読んでください)

自分のことを書いたという大森靖子の音楽は、自我から逃れられないのに、自我を超えて、とても美しかった。

自我なんてない方が音楽は奇麗なのかも知れない。

けれど、、、

その間で今日も揺れている。

椎名林檎も、浜崎あゆみも、そして大森靖子も、私にとってそういう存在なんだろう。


これを書いていて思い出した記事があった。たぶん、同じことを書いているんだと思う。

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