大キライで大スキな関係 | ラフラフ日記

ラフラフ日記

主に音楽について書いてます。

随分前に買っておいてそのままにしていた、『音楽誌が書かないJポップ批評55 安室奈美恵「音楽・人・センス」』。じっくり読みたいのだけど、なかなか読めていない。

安室ちゃんは気になる存在だけど、こういう本を買うまでではなかった。だけど、冒頭、菊地成孔×辛酸なめ子のこんな対談から始まっているというのだから、買わないわけにはいかなくなったのです。

菊地 浜崎あゆみなんて、音楽家から見ると自分がのし上がりたいためにフォークとかロックとか手近にある音楽をやり散らかしてるだけで、きつく言えば、お前音楽ホントに好きじゃないだろって感じがするんですよ。でも安室奈美恵は「ああ、本当にヒップホップが好きなんだね」というか、音楽をやってて、その音楽によって自分も救われてる感じが伝わってくるんですよね。

売られたケンカは買わなくちゃいけないので、買いました(笑)。
いやいや、そんなん恐れ多いし、もちろん冗談ですけど、こういうのこそ読まなきゃならない!って思ってしまう私って、一体なんなんでしょう。

でも、上記の部分だけ取り上げてしまったけど、菊地さんは、安室ちゃんは天皇、あゆは大統領って評してて、あゆのことも評価してるんだなと思いましたし、「あゆは作詞作曲でもなんでも自分でやりたい人だから、流行が変わるとすぐについていけなくなるのかもね」と、評価とも取れることも仰っていますし、大体、比較対象として挙げることからして、評価と受け止めましたけどね私は。それに、あくまでこの本の主人公は、安室奈美恵ですし。

あゆが好きだからそう捉えたいだけかも知れないけど、菊地さんは、bounce で以前やっていた『チアー&ジャッジ』でも、チアーすることはジャッジすること、ジャッジすることはチアーすること、“チアー=ジャッジ” という究極のことを言われていたので、そういうことだと思います私も。

ちなみに菊地さんは、『CDは株券ではない』で、浜崎あゆみのことを、大スターとしてエルヴィス・プレスリーやビートルズを引き合いに出して語っていますし、彼女の「ボディが持つメッセージ性」を全盛期のマドンナに匹敵するとまで書いています。(どの曲も全く区別が付かないとも書いてるけどね。それでも、認めるところは認めてるということでしょう)

で、なんでこんなことを書きだしたのかというと、私、菊地さんが言っていること、一理あると思うんです。

そんなことを思う私は、あゆファン失格でしょうか?

何故かというと、かつては私も、菊地さんが言っているようなことを思っていたから。

浜崎あゆみなんて、こんなん、売れる音楽をやってるだけだと思っていました。もっと言えば、「音楽を舐めてる」とまで思っていました。

だから、菊地さんのこの発言を読んだとき、ズキズキと胸が痛みました。消えないココロの古キズに染みるぜ(笑)。

だから、あゆファン失格だと言われようとも、そしてそれがどんなに大変かわかっていようとも、これは一度、私が向き合わなければならないことなんだと、勝手にその気になってしまったのでした。

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私がいつ「浜崎あゆみ」を認識したのか定かではないのですが、私は最初、「こいつは音楽を舐めてる!」と思っていました。だから、嫌いでした。

あゆは、歌手になりたくてなったわけではありません。音楽が好きで音楽を選択したわけではなかったのです。だからきっと、私はその辺を察知して、「音楽なんて好きじゃないくせに!」と思っていたのでしょう。実際あゆは、音楽に対して、無知というか無邪気というか無防備というか無自覚なところはあったんだと思います。

それは好きになった今でもそう思っているし、そんな人が今、音楽との関係を築いていく中で、「私から歌を取り上げたら何もなくなる」とまで言わしめるようになったことが感動的なんであって、誰でも最初から「音楽」を知っているわけではないということを私に教えてくれたとも思っています。そういった意味では、私の方こそ、音楽を知らなかったし、音楽を舐めていた。

しかし、よくよく考えてみたら、なりたくてなったわけではない歌手、「音楽を舐めてる」と思わせる歌手なんて、他にもたくさんいたはずなんです。それなのにどうして私は、「浜崎あゆみ」に関してだけ、「こいつ、音楽を舐めてる~!」とか言って必要以上に気にしていたのか。それは、ただ単に、あゆが「売れていた」からということもあると思いますが、それでも、そういう人は他にもいたはずなんです。だから、私の中で、「音楽を舐めていたから」という(嫌っていた)大義名分が揺らいできてしまったんです。

あゆは本当に音楽を舐めていたのだろうか。
私が「音楽を舐めてる」と感じてしまっただけではないか。
そして、そこにこそ、「浜崎あゆみ」が私の心を掴んで離さない理由が潜んでいるのではないか。

つまり、嫌っていたときも、好きになった今も、浜崎あゆみの中にある同じものが私の心を掴んでいるのではないか。

それは、言い換えれば、「音楽を舐めてる」と思わせる要素が、今も浜崎あゆみにはある、ということだ。

だから、菊地さんの発言にいちいちズキズキする。

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なぜ私は、あゆに対して「音楽を舐めてる」と思ったのか。

それで、初期の作品を聴いてみるけれど、よくわからなくなってしまった。今となっては好きになってしまったし、今のあゆを知っているからかも知れないが、「音楽を舐めてる」とは思えない。というか、舐める以前の問題だ。あゆはスカウトされて歌手になったわけで、なりたくてなったわけではないが、だからといって、音楽を舐めてるという感じでもない。舐める対象にもなってない感じだ。その辺の無自覚ぶりが気に障ったのかも知れないが、そういう人は他にもいた。言えるのは、あゆは音楽に対して無知だったかも知れないけど、自分が無知であるということは知っていた、そんな気がする。それと、やっぱ、悔しいけどキラキラしてたんだよね、歌ってるあゆは。

私は、熱心に音楽を聴くようになる前は、売れてる曲とか皆が知ってる曲の中から好きなのをちょいちょい聴くぐらいだった。そこからだんだんと音楽にハマっていき、好きなミュージシャンが音楽マニアだった影響もあって、洋楽ロックにハマっていった。そして、そういう洋楽に影響を受けた邦楽も聴くようになっていった。

その一方で、小室系とかチャートを賑わす音楽も変わらず聴いていた。カラオケでよく歌われるような曲とかね。

だけど、どちらも好きには違いなかったけど、自分の中で勝手に、その二つをどこか別物として分けて聴いていたような気がする。その境界線は曖昧なもので、細かく言えば二つだけじゃないかも知れないけど、どこかで分けて聴いていた気がする。そういうのはこれからもずっと自分の中にあり続けていくんだと思うけど、ここでは大きく分けて、「ロック系」と「ヒット系」だとします。

で、あゆは、どっちだったかというと、「ヒット系であるはずなのに、ロック系に踏み込もうとしている」だったと思うんですよ。私があゆに嫌悪感を抱いたのは、「ロックの領域に踏み込んできた」と思ったからじゃないのかな~。ロックの領域って言ったって、それは私が勝手に描いているものであるし、蓋を開けてみれば誰かの受け売りに過ぎなかったとあゆによって気付かされるんだけど、直感的に「別の領域から、別の領域に踏み込まれた」という意識が働いたのは確かなんです。相容れないはずのものが、出会ってしまっている。それを浜崎あゆみは無自覚に、いや、無自覚だとは思いません、だからと言って、完全に自覚的だとも思わないから、半自覚的にやろうとしている。それに拒否反応が出ちゃったのかなぁ。「ヒット系のくせに、ロック系に入ってくんな!」みたいなね(笑)。でもそれは、裏を返せば、「あゆにロックを感じてしまったから」に他ならない。

そしてその感覚は、浜崎あゆみを好きになった今、完全に払拭されたのかといったら、そうではなかった。
ていうか、今回グチャグチャ考えているうちに、それに気付かされた。

浜崎あゆみの音楽には、「違和感」がある。

なんだかうまく説明できない、「違和感」が。

本来、相容れぬはずのものが共存している、そんな「違和感」が。

その違和感から、私は嫌悪感を感じ、「音楽を舐めている」と思ったのではないか。

歌手になりたくてなったわけではないということも、実際ほんとに音楽を舐めてるところも、あったのかも知れないけど、どうにもこうにも私が見過ごせなかったのは、あゆの音楽にある違和感、どこかイビツな、まがい物のような、「本物」ではないような、そういう違和感が、「この人、音楽を舐めてるんじゃないだろうか」と思わせたんじゃないのかなぁ。
良くも悪くも、今まで聴いたことのない変な音楽だったんだよ。あのときの私は、「小室系」と「ロック」が交わるなんて、思ってもみなかったもの(笑)。あゆの音楽は、「異形の音楽」だったんだ。

そして更に言うと、その「違和感」こそが、日本の音楽、というか、「J-POP」に求められるものではないだろうか。それこそが、「J-POP」にできることではないだろうか。

「まことに鮮かであり、気味わるし」と、正反対のことを、美空ひばりに対して古川ロッパは記したそうな。

そして、驚くべきことに、その「違和感」は、今も浜崎あゆみの音楽にあり続けている。

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そんなことを思ってからは、菊地さんが安室ちゃんに対して思うような、「ああ、本当にヒップホップが好きなんだね」という聴き方がイマイチできなくなってしまった。自分が好きな邦楽の中に、いかに「洋楽ありき」で聴いていたものが多かったかに気付かされたり。

例えば、ラヴ・サイケデリコとかトライセラトップスとか、今だって良いと思うし好きだけど、「ビートルズが好きなのねぇ」とか「ポールが好きなのねぇ」とか、そんな気持ちで聴いてた気持ちは否めない。別にそれが悪いとは今も思ってないけど、自分にとってそういう音楽って、好感は抱くけれども、なんちゅーか、「一線を越えない」んだよね。

そういった意味では、エレカシは異質だったし、その「異物感」の正体は何かというのの先に、あゆがいたというか。
(きゃー、エレカシファンにもあゆファンにも怒られる!笑)

大抵、「この人ほんとに音楽が好きなんだねぇ」とか言ってる時点で、それはもうどこかで、「フェア」じゃないんだよね。ま、フェアじゃなくても良いのかも知れないけどさ。

そうじゃなくて、「私はヒップホップが好きなんだ!」というような、「音楽的な出自」が浜崎あゆみには見えてこないって話なのかも知れないけど、じゃあ、やってる音楽が「薄い」のかといったら、そうじゃないもんなぁ。

私は、菊地さん曰く、浜崎あゆみがやり散らかした音楽を、必死で拾い集めてるだけなのかも知れない。

でも、それならそれで、精一杯、拾い集めようじゃないか!

ただね、これだけ言わせてもらえば、「音楽をやってて、その音楽によって自分も救われてる感じ」、今のあゆにはあると思うけどなぁ。いや、本当は最初からあったのかも知れない。
そう、正直に言えば、あゆには、音楽をやってても、音楽によって自分(あゆ)が救われてない感じがして、だから嫌だったっていうのもあるんだ。だって、なんか、そんなの悲しいじゃん。
でもね、安室ちゃんとはまた違うかも知れないけど、あゆにもあると思うんだよなぁ。

はぁ~~~、自分でもワケがわからなくなりながら半べそかきつつ書いてきましたが、冒頭で紹介した、『音楽誌が書かないJポップ批評55』。「安室奈美恵と浜崎あゆみ――2大カリスマはコインの裏表?」というのもあって、なかなか面白いです。あと、別記事で、安室ちゃんは「マドンナよりもジャネット・ジャクソン」ってのがあって、強く共感いたしました。私も前からそう思っていました。

最後に、この記事のタイトルは、2002年頃「あゆにとって歌とは?」と聞かれたときの、彼女の答えです。