このブログ、もうちょい早く書くつもりだったのに、なんだか生気を失って抜け殻のようになってるせいか、なかなか着手できませんでした。
さゆのSNSアカウントを少し遡ってみたりもして。
ついこないだまでこうやって活動してくれていたのに、いまはもうそれがないということがまだ信じられません。
明日にでもまたブログを更新してくれるんじゃないかとか、インスタを投稿してくれるんじゃないかとか思ってしまう。
もうずっと長いあいだ「道重さゆみがいる世界」を生きてきたから、そうじゃない世界をどう生きればいいのかわからなくなって、ちょっと(だいぶ)戸惑ってます。
いやもちろんどこかにはいるんだけど、そうじゃなくてね。
22年以上ずっと、なんらかの形でさゆの活動というか、人生を見守ってこれていたから、急にそうじゃなくなると……そりゃあね。
あ、そうだ。
わたくしの前回のブログの最後の一文……いや二文が、さゆのインスタのラスト投稿の文章と同じっぽくなってしまったんですけど、これはもちろん偶然です。
真似したわけじゃないのよ。(弁明)
ブログ書いたときはまだあの投稿見てなかったし。
そのあとインスタ見て「やべ、かぶったw」と思い、直そうか迷ったんですが、まぁ自分の心から素直に出た言葉なんだから別にいいかとそのままにしてます。
でもなんか、さゆと同じ気持ちだったんだということが嬉しかったな。
ありがとうの気持ちも、永遠に大好きだという気持ちも、同じなんだなって。
ライブで読んだというお手紙も、原文そのままに、画像にして公開してくれましたよね。ブログで。
こういうところ、本当に気が回るし、ファン想いだなぁと思います。
なにより、手紙の内容。
レポでも拝見させてもらいましたけど、やはり原文を読むとこう、より伝わってくる。
なんていうか…………あぁ。
いま、このブログを書くために改めて読み返したんですが、なんかもう、言葉にならないです。
あれこれ書こうと思ったんだけどな。
無理かもしれない。というか、必要ないか、って。
こんなにも、素敵で、美しくて、優しくて、可愛くて、愛に溢れていて、悲しくて、寂しくて、涙があふれてくる言葉には、この先もう出会えないかもしれないと思うくらいに。
「ごめんね」と「ありがとう」と「大好き」を、こちらからもさゆに贈りたい。
「ありがとう」と「大好き」はともかく、こっちからの「ごめんね」ってなんだろう?と自分でも考えてみるんだけど、それはたぶん「ごめんねって言わせてしまってごめんね」な気がする。
さゆが優しいから、ファンの気持ちを想って言ってくれた「ごめんね」が、嬉しいのと同時に、申し訳がない。
だからこっちからも「ごめんね」なんだけど、でも本当は、「ごめんねと想ってくれてありがとう」と言いたいのかもしれなくて。
前回も言ったように、さゆがファンと離れることを寂しいとか辛いとか思ってくれていることが嬉しい。
メンバーの卒業や引退は、ともすればファンの気持ちとは別の方向に離れていくことでもあってそれがまた寂しいんだけども、さゆとはいまも同じ気持ちでいられる気がするから、ファンと同じように惜しんでくれるのが嬉しい。救われる。
本当は、できることなら、離れたくない。
そう思ってくれることが、わたくしの救いです。
やっぱりすごいなぁ、さゆは。
最後の時にこんなお手紙を、こんな言葉を綴ることができるなんて、本当にすごい。
すごすぎてすごすぎて、やっぱり泣いてしまう。
これから先、さゆのことを想ってどうしようもなくなったら、また読み返すでしょう。
しょっちゅう読み返すかもしれないし、数年に一度かもしれない。
気軽に読めないのは間違いないけど、この手紙が、これからを生きるよすがでもあるから、ずっと心には在り続けると思う。
あぁ~~~~。
思ったことの1割も言葉にできない……
こんなことは初めてかもしれません。
「充分書いてるだろうよ」と思われるかもしれませんが、自分の心にあるものとはなんか違って。
あまりにも「言葉にできない」すぎる。
したいんだけどな。本当は。
でもできないので、もういいかという気持ちになってます。
例えるなら、ボロボロ泣きながら微笑んで手を振ってるような気持ち。
まぁそのまんまですね。
例えにもなってない。
今後ずっと、山崎まさよしの名曲よろしく、いつでも捜してしまう気がする。
こんなとこにいるはずもないのにと思いながら、いつだってさゆを捜してしまう気がする。
これから、生きてるあいだ中、そうしてしまう気がするよ。
死ぬまで埋まらない心の穴が
あなたのいない未来を生きろと そう謳う
というのはBUMPの『邂逅』という曲の歌詞だけど、まさにこれ。
死ぬまで埋まらない穴だからさ。
もうこれを抱えて生きていくしかないんでしょう。
あぁ、でも、さゆ。
いつかまた会えるといいね。
会えるようになるといいね。
会えない理由がなにもなくなればいい。
たとえ実際に会えなくても、会えなくなった理由とか原因とかが全部なくなればいいなと思うよ。
「もう会えない」ではなく、「いつかまた会える」と思いながら生きていたい。
さゆもそうであればいいなと思うよ。
もう一度言うけど、実際にまた会えるかどうかという話じゃなくて。
「会えない」ことの寂しさや悲しさがなくなって、「会える」希望に満ちたまま生きていたいなってこと。
そんな風になってほしい。
いつか。
いつか。
すっかりセンチメンタルです。
なんだかセンチメンタルな時のブログ。
無理もあるまい。
正直、2010年のライサバで亀ジュンリンの3人が卒業したときとか、2015年のりほりほの卒業発表のときと同じくらい、現実を受け入れがたいというのが本音です。(特に後者はしんどかった)
受け入れようと受け入れまいと、現実は変わらないんですが。
要するにショックが大きいということ。
そんなことを言ったら余計にさゆに「ごめんね」と思わせてしまいそうでいかんのですが、まぁこの弱小ブログに書く分にはよかろうということでご容赦願いたい。
今頃さゆ、なにしてるかな~。
まだ余韻に浸ってるだろうか。
笑ってるかな?泣いているかな?
今の僕らにはわからない。
想ってること 忘れないでいて。
というのはGLAYの『時の雫』の歌詞ですが(また引用
あなたの心がいつの日もそうね清らかなままでいて欲しいと
今 切に願う
と切に願います。
なんかよくわからない変なブログになってしまったか。
このブログのタイトルにある「手紙」はもちろんさゆのお手紙のことですが、東京事変の『手紙』という曲の歌詞もまたいまの状況にぴったりで、良い曲です。
引用し出したらキリがないのでやめときますけど。
上手い締めの言葉も思いつかないので、これくらいで終わりにしておきましょう。