※ちなみにこれは昨日の夜書いたもの。






しつこいようですが自分は《物語》が好きで、そんな《物語》の中に、大好きなモーニング娘。のメンバーがいるということがとても嬉しいわけですよ。



娘。の舞台を観ていつも思うのは、そのこと。



最近ではあまりしなくなりましたが、例えば本を読むときなんかに登場人物にハロメンを脳内キャスティングさせると、内容が2割増しくらいにおもしろく感じるものです。思い入れがありますからね。



とはいえこれはキャラクターの性格や要望とある程度マッチしないといけないので、なかなか機会がないのです。



なので、メンバーが直接物語の中に登場してくれるとありがたい。



映画やドラマでも良いんだけど、個人的には《舞台》が一番好きかな。



舞台というのは(前にも言いましたが)「虚構性」のエンタメだと思ってます。



映画やドラマのようにカメラを通すわけでもなく、映画館のスクリーンやテレビの画面を通すわけでもなく、客の目の前で繰り広げられるお芝居。



普通に考えたら成立しなそうなその状況を、客も演者も共犯になって受け入れる。



なんというか、山一つ飛び越えた虚構性を感じるんですよ、そこに。



簡単に言ってしまえば、より《フィクション》としての度数が高い。



映像の加工や編集はできないけど、その分伝わってくるものも大きい、



例えば小説には「本格ミステリ」という分野があって、いわゆる「名探偵がいて犯人がいて、閉ざされた山荘やらお城やら孤島やらで繰り広げられる殺人事件」を描いたものです。



これは当時、「リアリティがない」とか「馬鹿馬鹿しい子供の読み物」などと言われたものです。



まぁ常識で考えたらこんな状況は有り得ないだろうし、ゲーム的と言われても仕方がない代物ではあります。



でもだからこそ魅力的で面白いのであり、今も変わらず愛されて、熱狂的なファンだっているわけです。



刑事が靴底擦り減らして捜査にあたるリアルなミステリーも良いですが、本格ミステリのような虚構性を愉しむことができる能力が、人間にはあるのです。




舞台は、それに似ている。



もちろん舞台にも様々な種類がありますけど、ここで言ってるのはまぁ、中・小規模の舞台について。



大々的な大舞台だと、また違った魅力があるのでしょうけど。



でもその「狭さ」というか規模の小ささがまた虚構性を高める役割を果たしていて、ミステリアスな不条理劇なんかをやるのなら、小劇場とかのほうが効果的なんじゃないかと思いますね。素人考えですが。





何が言いたいかといえば、舞台という虚構性の度合いが高い場では、《物語》の魅力がより発揮されると感じるんですよ。自分は。



だから大好きなモーニング娘。のメンバーがそれを演じると、最高のコラボとなるわけです。



いつもは小説を読みながら脳内だけで繰り広げ得られていた「メンバーが演じる物語」が、目の前で実際に繰り広げられているわけですから感動しないわけがありません。





そういう意味でも、「出演者のことを知らない舞台」と、「よく知っていて思い入れも深い出演者が出ている舞台」では、受ける印象も異なるのは当然のこと。



自分はモーニング娘。ファンなのでその目線でしか言えませんが、我々ファンは、「芝居を観る」のと同時に「大好きなメンバー」のことも視ているのでしょう。



(※見る・観る・視るは似てるようで違う)



それは、いわゆるメンバーの成長とかそういったファン目線・親目線もさることながら、「ファンそれぞれが自分の中にあるメンバーへの物語性」を視ている(幻視している)という意味です。



こんな言い方ではわかりにくいですかね……。



例えば、まったく同じ物語(映画でも舞台でもなんでも)でも、自分の好きな役者が演じるのとそうでないのとでは感じ方が違うはずです。



もちろん演者の力や演者への思い入れだけで物語の評価が決定するわけではありませんが、それがまったく評価に影響しないとは言えますまい。

もしそう言えるとしたら、それはその人(演者)のことが実は大して好きではないか、あるいは好きなクセに「好きじゃないもん」と言うラブコメのヒロインみたいな「自分で自分をわかってない」状態なだけでしょう。



演者への思い入れから来る影響というのは、間違いなくあります。

それがないなら、演者は全員のっぺらぼうのアノニマスでも構わないわけですしね。





といったような意味で、モーニング娘。ファンが「モーニング娘。が演じる舞台」を観るときには、そういう二重の意味での物語を観て/視ているわけであります。





その部分をもっと掘り下げて言わせてもらえば、いまあの年齢、あの発展途上の状態からしか感じることのできない魅力というものが、とても愛おしくて、そしてその儚さが切ない。



これはファンだからこそ感じることなのかもしれませんが、中学生や高校生という若さ、そしてまだまだ荒削りな芝居の技術。

でもそこからしか感じることのできない刹那の魅力というものを、あの娘たちからは感じるのです。



きっとこのまま成長していけば、当然ながら年齢は上がるし、演技の技術も向上するでしょう。



それはそれでとても良いことだと思いますし楽しみでもあるんですが、いま、この未熟で、未熟であるが故に出すことのできるなんとも言えない魅力は、本当にいましか感じることができないんですよ。



単に技術の問題だけではなくて、さっき言った《二重の物語性》に関してです。



いまのあの娘たちから感じることのできる《物語》は、まさに「いま」しか感じることができないのです。



だから、たとえ未熟でも、いまこのときに舞台をやってくれて嬉しい。



《モーニング娘。》と《物語》のコラボは、自分にとってなによりの贅沢ですからね。




「完璧で質の高い演技しか評価しない」という人もいるだろうし、それはそれで一つの審美眼ではあると思いますが、それに限らない魅力というものが《舞台》にはあるんじゃなかろうか、という話でした。








長々書いてきましたが、結局一番言いたかったのは後半の「いまのあの娘たちは、いましか見れない」ということの喜びと儚さついてです。




完璧になる前の、未熟な状態。



そして、そこにしかない魅力。




これがあるから、ファンは片時も目を離せないんですよねぇw



それはきっと、演技だけじゃなくて歌やダンスにも言えることでしょうけどね。






以上、『ごがくゆう』をもう一回観たいけどそれは叶わないので腹いせに書いた長文でした←