次になんの本を読もうか迷っています。



すんなり決まるときもあれば、何日経っても決まらないときもあるのです。



なんせ家には積読本(買ったはいいけど積んだまま読んでない本)が推定200冊以上ある。正直1、2年は他に本を買わなくても暮らしていける量で、さながらプチ図書館状態。我ながら呆れるw



そんな中から一冊読むとなると、こりゃ迷うに決まってる。




そういえば読書の秋じゃないか。



なんで秋に読書なのかよくわからないけど、どうやら読書の秋らしい。



しかし読書家にとってはそんなの年中行事であって、言わば『読書の四季』だ。秋だけ特別に読むわけではない。



秋は過ごしやすい季節なんだから、部屋で読書なんかしてないで外で元気よく遊んだほうがよろしい。




ところでこの間本屋に行ったら、小学五年生くらいの男の子とその母親らしき人が、好きな作家を主張し合っていた。



男の子は「山田悠介」の本こそ面白いのだと主張し、母親は「東野圭吾」のほうが有名だし面白いのだと主張していた。



小中学生に於ける「山田の本(by 道重さゆみ)」の絶大な人気と、一般人に於ける「東野圭吾」の人気度を感じる一幕であった。



だけど本好きとしては、なんだかガックリくるお話である。



所詮流行りの人気作家しか読まれていないのだ。

これを今のアイドル界に例えると、某大人数グループばかりが注目されていて、ハロプロは蔑ろにされている現在の構図だ。

ハロプロファンは、「もっと凄いグループがあるのに」と歯痒い気持ちだろう。それと似ている。



世間の人々というのはどうやら、自分が思っていた以上に受動的な人間が多いらしい。



自分から探さない。自分の好みを持たない。なんのこだわりも必要としない。そんな人間。

誰かが(多くの場合はメディアが)「これは良いですよ」と言ったものにしか反応しない。そもそもそんなに求めてもいないから、ふと目に飛び込んできた情報を鵜呑みにしてすぐに飛びつく。「なんか話題になってるみたいだから見てみようかな」といった具合に。



そんなものなのだ。世の中とは。

そういう人々が多数派なのであって、自分から何かを求めてそれを追求する人々は、いわゆる「オタク」と呼ばれる。あるいは「マニアック」とも。



多数派にいる人間は、総じて「多数派にいることに安心感を覚える」人々だ。自分が「その他大勢と同じ価値観」であることから逸脱することを恐れる。

だから少数派の人間を馬鹿にすることがある。「オタク」というのが蔑称として言われている(今は昔よりずっとマシになってきたけど)のもそういうわけだ。



そういった人間は、いつまでも誰かの(というかメディアの)モルモットになっていればよろしい。みんなと一緒に、みんなと同じものを好んで、みんなと同じところで一喜一憂していればいいのだ。



本当のマイノリティ(少数派)は、それがいかにつまらないものかを知っている。



流行り廃りに奔放されて、右に流され左に流され、減ったものはお金と時間。残ったものは何もない。




ヨーロッパのとある国では、趣味を持たないことは仕事を持たないことと同じように侮蔑されるらしい。



味気ない多数派になって喜んでいるのは、日本人くらいなのかもしれない。





以上、少数者の主張でした。