1話


―――川―――





涼しい夏の夜だった。





「先輩、起きてください。」





そう言って僕は先輩の肩を揺らす。





僕が今起こしているこの人は、僕が所属している大学の天文学部の先輩で、希という名前だ。





まぁ天文学部と言ってもほとんどまともな活動はしない、名前だけの部活であって。





ただし、割り当てられたこの部室を自由に使えるというのは最高だ。





僕らはそこで一日中ダベって麻雀したり花札やったり。兎に角遊びまくった。





我ながら悲しい学生時代だ。





「先輩、『夜になったら起こせ』って言ったじゃないですか。」





「んん……。」





やっと目を覚ました。

部室に布団まで綺麗に引いて、一体なんなんだこの人は。





「先輩、寝起き悪すぎですよ。」





あくびをしながら座ったまま伸びをしている。





眠たそうな声で彼女は言った。





「さて、行くか。」





……どこに?







先輩は妖しげな笑みを浮かべた。





こんな顔をしたときはなにか起こる。いや、起こされる。





僕の心臓は好奇心と恐怖で高鳴っていた。







先輩は自分で見てしまったものを僕に見せて、怖がるのを楽しむ、といういわゆる「見える人」だ。





なにかあると度々僕を連れて行く。





僕もその状況に満足していた。







その日は自転車である場所へ連れてかれた。





彼女の漕ぐ自転車は、そりゃあ、もう。速い。

途中で見失いそうになったが、やっとこさで追い付いた。





「ここだ。」





そこは河原だった。





先輩は自転車を適当な場所に停めると、鍵も掛けずに歩いていった。





僕も急いで後を追う。





川沿いの砂利道に伸びる暗闇の向こうへと、僕たちは向かった。





すーっ





緩やかに水が流れる音が聴こえる。





何百メートルか先にはコンクリートでできた大きな橋が架かっていた。





「先輩、こんなところまで来て、なにがあるんですか?」





先輩はニヤリと笑って言う。





「お前、知ってるか?





江戸時代、身分制度が厳にされていた頃





街のあちこちに身分の低い放浪者が出た。





職も、金も、食料も、住む家さえもない。そんなやつらだ。





その放浪者はやがて飢えて死ぬ。盗みをして殺される。冬には凍死する。





ここは、そんな身元がわからない遺体を棄ててあった場所だ。」



背筋が凍ったような感覚がした。





水が流れている音に違う音が混ざってくる。





耳鳴りがしている。





いや、耳鳴りだけではない。





遠くからなにか聴こえる。小さな声。

なにを言っているのかはわからない。





そしてその小さな声は、次第に近くから聴こえるようになった。





「聴こえるか…?」





先輩はそう言って、立ち止まる僕のほうを見るとまたニヤリと笑った。





するとまた暗闇のほうへ、歩き始めた。





すぐに追おうとしたが、体が動かない。





まるで金縛りにでもあったような感覚に陥り、先輩をただ見ていた。





声はそれでも近づいている。





橋のあたりで先輩が止まった。

なにかをまじまじと見るように。





橋の向こうになにかいるのだろうか。





僕もそこを細い目で見てみる。





………なにか、いる。





僕にはこの世にあるものと、この世のものじゃないものを見分ける方法のような、基準のような、そんなものがある。





僕は目が悪いのだが、普段コンタクトや眼鏡など、つけるとさらに目が悪くなるような気がして、いつも肉眼だ。





この世のものは当然ながら少しボヤけて見える。





しかし、この世のものでは無いものは、距離も、周りの光も関係なく目に鮮明に映る。





僕が今見ている、「それ」は遠くの橋の下にいるのだが、僕の目にくっきりと映っていた。







一本しかない脚をけんけんさせて、少しずつ、確実にこちらに近づいてきている。





顔は見当たらない。





ただ、体?にあたる部分にたくさんの凹凸がある。





声が大きくなる。しかしなんと言っているのか聞き取れない。





その「なにか」は先輩の横を通り過ぎ、それでもこちらへ来ている。





先輩は振り返り、ニヤニヤしてそれを観察し始めた。





助けてほしい。なのにあの人はなにをしているんだ。





逃げようと思ったが体が動かない。





どうしよう…。戸惑っていると先輩が遠くに離れていくような気がする。





先輩は歩いていないのに。





僕だけが空間に取り残されたような、そんな光景が目の前に広がる。





先輩はもう暗闇の向こうへ消えてしまった。





ただ、そこにいる「なにか」だけが近づいている。





もうそれとの距離は10メートル以内となっている。





よくみると顔を見つけた。





顔があるのだが、問題点がある。





ある場所とその数だ。





顔が胴体と思われる位置にある。

そしてその数は……

確認できるだけで7、8個ある。





その顔のどれもがこちらを見て、微かに笑っている。





そして、動いているのだ、すべての口が。





なにか喋っている。

すべての口から発せられる声は、意味を介さず僕の耳に飛び込んできた。





なにを言っているのかわからない。





体が震える。嫌な汗が滲み出る。





それとの間合いが1メートルまで近づいた。





どうしよう、逃げろ、逃げろ、逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ………。





それだけが頭に流れた。

頭が回らない。





それが僕の肌に触れる位置に近づいたとき、それがなにを喋っているのか、一部聞き取れた。





「………おいで。」





確かにそう言った。

開いた口が塞がらない。

涙まで出てきた。





すると、すべての口から同じ言葉が出てきた。





「おいで、おいで、おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで…。」



どこに?どこにいけばいいのだろう?





ついに頭の回転が止まった。





今、自分があるその状況に、対処できなくなった脳は

目の前の光景を映すことを許さなかった。







―――。





その後僕が見た光景は

夜の暗い川に映る三日月だった。





それをじっと見る先輩の背中がある。





「先輩」





「気づいたか。」



先輩は振り向いた。





「先輩、途中でどこか遠くに行きませんでした?」





「いや、行ってないけど。ただお前、あいつがなにか言ってからずっと放心状態だったな。」





気を失っていたようだ。

じゃああの思い出すのも恐ろしいあの光景は、見ていたのではなく、見せられていたのだろうか。

多くの疑問がよぎった。





「いやー、怖かったなー。」





先輩がそう言った。

全然そんな風に聞こえない。





「そういえば、どうなったんですか?あの後。」





先輩はニヤリとまた笑った。





「……知りたい?」





直感的に知ってはいけない、と思った。





知ったらなにかが変わってしまう、そんな気がして。





「いや、遠慮しておきます。」





苦笑いで答えた。





先輩は残念そうな顔をすると

「帰るか。」と言った。





「先輩、ちなみにあいつがなんて言ってたかわかりました?」





先輩はまたニヤケ顔で

「全部、聞こえた。」





と言った。





僕が気を失っている間、なにが起きたのか。

あいつは何だったのか。

僕が意識を取り戻したとき、先輩は何故川を見ていたのか。





すべては先輩にしかわからなかった。





今夜も三日月だ。












































2話


―――手を振る―――





まだ夏になりきらない気温だが、桜はもう葉をつけ始めている。



住宅街の細い小道では子供たちがキックボードに乗ってはしゃいでいる。



僕と、大学の先輩である希さんは、『喫茶店 ブルー・M』の窓際の席で、ある女性の話を聞いていた。



しかし、この喫茶店の名前からして、何度聞いてもあのコーヒー豆しか使っていない気がする。



実際のところ、使っているはキリマンジャロらしいが。



「で、どうしたって。」



先輩は身を乗り出してその女性から話を伺った。



「うん、えぇとね…。」



僕は黙って二人の会話に耳を傾ける。



「その人、私に向かって手を振っているの。いつも同じ時間に。」











その女性は、先輩のバイト先の知り合いで、由美という名前だ。



先輩と年齢も近く、話しているうちに仲良くなり、一緒にいるうちに先輩の異様な能力に気づいたらしい。



それで自分に起きていることについて解決できないか相談した、という経緯だ。



僕が呼ばれたのは、先輩曰く「社会経験。」らしい。



由美さんは大学三期生で、わりと真面目に大学の講習に出ていると言っている。



「それで、そいつはいったいどんなやつなんだ。」



先輩はコーヒーをティースプーンでかき混ぜながら言った。



「顔はよく見えないの。なんていうか、そこだけ靄がかかっているような…。でも、男の人っていうことだけはわかる。」



「ふぅん…。じゃあ、それっていつも何時くらいに?」



「3時頃かな。」



今はまだ正午を回ったくらいだ。今日はまだ3時間ほどある。



「どうゆうふうに現れる?そいつはどんな状況でも現れるのか?」



「うん…。たとえば大学の講習に出てるときなんかは、手元の参考書とかを見てからまた視線を戻すと、そこに、いる。そして手を振っきて。私が慌てて眼を逸らしてまた視線を戻すと今度は、消えてる。」



ぞっとした。



大学の講習で周りの誰もが前を向いているなか、たった1人だけ、顔がこちら側に向いていて、そのうえ手を振ってくる。



日常の中に見え隠れする不自然。



彼女はいまそれに悩まされているのだ。



希さんはコーヒーを一口飲み、変わらぬ調子で尋ねた。



「他の誰にも見えていないのか。」



「うん。多分、だけどね。もしかしたら私の他にも見えている人がいるのかもしれない。そこはなんともいえないわ。見えててもアクションを起こさない人だっているだろうし…。ただ、そのとき私と同じ場所を見ている人を見た経験ならある。」



希さんは「そうか。」と呟き、コーヒーを全部飲んだ。



「じゃあ、最後だ。そんな状況になってしまった原因に心当たりはあるか?」



由美さんはしばらく考えてから、思いついたように言った。



「そういえば、ずいぶん前だけど、絵画を買ったわ。誰が描いたのかはわからなかったけど。」



由美さんは眼を細めて続ける。



「どんな絵かっていうと、鏡に掛け時計と、男の人の後ろ姿が正面から映っている絵。ただそれだけの絵だったんだけど、買わなきゃいけない気がしたの。衝動的に、ね。」



僕はその絵を頭の中でイメージした。



………、おかしい。



鏡に人の後ろ姿が映っている場合、その風景を見るには観察者が不可欠のはずだ。男自信は自分の後ろ姿は見えない。



鏡の方を向いていないのだから。



しかし、鏡に映っているのは男の後ろ姿と掛け時計しか映っていないという。



正面から描いたのに関わらず、だ。



つまり、その鏡の中にもう1人、映っていなくてはならない。



観察者、つまりその絵を描いた人物が絵の中にいなければ、その絵の風景はこの世の誰もが見ることはできない。



そのあり得ない風景を絵にしたものを、いま僕の目の前にいる由美さんという女性は直感的に買ってしまったのだ。



僕は希さんの方を見て、聞いた。



「原因はそれですかね。」



「見てみないことにはわからないな。」



先輩は由美さんの方を見て、言った。



「見せて、くれるか?その絵。」













僕達は由美さんと一度別れてから、その日また会うことになった。



先輩が「家に忘れ物した。」と言っていたので、先輩の住むボロアパートに僕達は行った。



部屋に入ってから少しして出てきた先輩は、小さめのショルダーバッグを背負っていた。



「何を持ってきたんですか?」



「んー、ちょっとね。」



答えになってない。



先輩は自転車に乗った僕の後ろにドスンと座り、「行くぞ。」と言った。



自転車を走らせながら、僕は先輩に聞いた。



「先輩、その男を見るつもりですよね。」



先輩は揚々と答えた。



「勘が冴えるじゃないか。」



僕は続けて聞く。



「見て、どうするんですか?」



先輩はまたも揚々と答えた。



「んー、殺す。」



背筋が凍りつくような気がした。



そして、先輩が家から何を持ってきたのか、かなり気になった。













昼の2時半頃、僕達は由美さんの家の前に到着した。



チャイムを押すと、すぐにドアは開いた。



「お邪魔します。」



玄関に靴を脱いで上がる。



「絵は二階にあるの。」



そう行って由美さんは僕達を二階に案内した。



ギシ……、ギシ……。



階段が軋む音の数を重ねるに連れて、僕に嫌な予感が過った。



それは先輩も同じようで、殺伐とした表情を作っていた。



「変よね。そういえば。」



由美さんが突然言葉を発した。



「今思えば、その男が毎日現れるようになったのはこの絵を買ってからすぐ。なのに。私はこの絵が原因だなんて思ったこともなかった。それが不思議。あれ?なんでだろう。怖くなってきた。」



由美さんの膝が震えている。



二階に着くと、由美さんは奥にあるドアを開けた。



一言で表すと「素朴」という言葉が合うであろう、その部屋に、僕達がそれについて先刻聞いた絵が飾ってあった。



ただの、一枚の絵。



しかし、僕には悪意が充満しているようにしか思えなかった。それも異常な大きさの。



鏡の中の時計は3時を示している。



冷や汗が流れ出る。



これは、相当、まずい。



先輩もその異常さを直感したであろうが、躊躇なく部屋に入っていく。



「先輩…っ。」



「どうした、お前も来い。」



僕は冷や汗を拭い、部屋に入った。



絵に近づくにつれ、耳鳴りが酷くなる。



先輩は時計を見て言った。



「もうすぐ3時だな。」



そんなバカな。この家についてまだ3分と経っていないはず。



しかし、時計を見ると3時になりかけていた。



「ま、そんなこともあるだろ。」



いや、ないですよ!とツッコもうとする前に、先輩が口を開く。



「来るぞ。」



頭が混乱し始めた。



来る?何が?そうだ。あの男だ。危険が、近づいてくる。



隣にいる由美さんが異常なほど震えている。



僕は由美さんの視線の方に眼を向けた。



誰か、いる。部屋の隅に。



多分、男。



手を振っている。



誰に?由美さんにだ。



次の瞬間、先輩がショルダーバッグからなにか小さくて鋭いものを取り出した。



「逃げるんじゃねぇ!!!逃げたらもう一回殺す!!!」



そう叫び、その方向に飛びかかった。



ビュンッと音を立てて、先輩が持っていたナイフは空を切った。



男はもう、いない。



「ちっ、逃がした。」



僕と由美さんは唖然としてあの男が消えた場所を見ていた。



ハッとして僕は先輩に聞いた。



「先輩、そのナイフ……。」



「あぁ、お前、何年か前に起きた一家斬殺事件知ってる?」



……何を言っているんだこの人は。



まさか、と思うと、先輩は続けて言葉を発した。



「毒には毒を、だ。」













僕達は一階にある居間に場所を移し、あの絵について話した。



「原因はまず間違いない。あの絵だ。」



断言した先輩は、由美さんを返答を待つように見つめた。



「それはわかった。でも私、どうすれば……。」



「貰っていいか?あの絵。それからなんとかする。」



由美さんは泣き出しそうな声で言った。



「でも…、大丈夫なの?」



先輩は尖った八重歯を剥き出して言った。



「必ず、殺してみせる。」













絵を持った先輩を乗せて、僕は先輩のボロアパートまで送っていった。



先輩に、「今日の夜11時頃、うちに来い。」と言われたので、僕は一旦自宅に戻って、シャワーを浴びた。



さっきの嫌悪感を洗い流すかのように。



夜11時になり、僕は先輩のボロアパートのドアをノックした。



「開いてる。」



鍵のかかっていないドアを開ける。



先輩が部屋の真ん中に敷いた布団に胡座をかいて座っている。



「来たな。」



先輩はにやりと笑った。



壁には新聞紙で包んだあの絵が立て掛けてある。



「どうしたんですか。こんな夜に。」



「決着つけるぞ。」



少しわけがわからなかった。



「え、だってあいつが現れるのは午後3時なんじゃ……。」



先輩は指を横にチッチと降り、言った。



「わたしの推測が正しければ、

だ。

あいつは午前3時にも現れる。」



時間が止まったような気がした。



夜は、まずいだろ。



凍りついた僕を尻目に、先輩は眼を輝かせて、「じゃあ待ってようか。3時まで。」と言った。













刻一刻と時間は近づいている。



また、あの男が来る。しかも真夜中に。



僕の心臓の心拍数は上がりっきりだった。



「先輩。」



「なんだ。」



「真夜中の3時にも見える、っていうのは今日に限った話ではないんですか?」



「当たり前だ。」



と、いうことは、だ。



あの男はこれまでにも夜中3時、眠っている由美さんに手を振り続けていたのか。



怖い、怖い、と、僕の直感的本能が囁く。



なにがしたくて男は絵の持ち主に手を振り続けているのか、まったく謎だった。



「先輩。」



「なんだ。二度目だぞ。」



「男は、どうして手を振ってくるんですか。」



「さぁな。まぁ、手を振ってるんだから、別れを告げるため…。じゃないか。」



先輩はさほど興味が無さそうに欠伸をした。



そして、先輩は続けて口を開く。



「お前に1つ教えてやろう。

問題解決の上で必要になってくるのは、いつ、どこで、誰が、何を、どのように、どういうことが原因でするか、だ。

それがわかれば、あとはどうすれば解決できるか、考えればわかる。」



僕は由美さんに質問する先輩を思い出した。



確かに、そのことについて質問していた。



「だから、そいつがどういう気持ちで手を振るか、なんてのは関係ない。」



「はい。心得ておきます。」



僕はなんとなく納得した。



「そんなこんな話しているうちに、もう3時が近いな。外、出るぞ。」



先輩は新聞紙に包まれたあの絵を持って、玄関に向かった。



「ちょ…、先輩、なんで外なんですか?」



「殺すためだよ。」



どんだけ殺したいんだこの人!



慌てて先輩の後を追う。



先輩はもう外に出て新聞紙を剥がしていた。



「来るぞ来るぞ。」



僕は身構える。耳鳴りが聞こえてきた。



絵の中の時計の針がぐるぐる回っている。



なんだこれ。なんだこれ。



今にも絵の中の鏡に映る後ろ姿がこちらを向いてきそうな雰囲気。



僕は視界の隅に違和感を覚え、反射的にそちらを振り向く。



あいつだ。



あいつが手を振っている。



いや、さっきとは違う、手の振り方。



あれは……、手招きだ。



僕は死の世界に呼ばれている気がして、後退した。



まずい、これはまずい。



男の顔には相変わらず靄がかかっている。



だけど、なんとなくわかる。そいつはニタニタと笑っている。



すぐに隣から声が聞こえた。



「行かねぇよ。」



先輩がポケットからライターを取りだし、素早く絵に点火した。



火は瞬く間に炎に変わり、絵を燃やしている。



男の方からおーん、おーん、おーん、と不気味極まりない音が聞こえる。



絵が消えるのにつれ、男の存在も薄れていく。



やがて、灰になったあの絵は、風に飛ばされてどこかに消えていった。



男ももういない。あいつは溶けるように消えていった。最後まで顔には靄がかかっていたが。



そして、先輩が楽しそうに言った言葉は

「殺してやった。」の一言だった。













僕達はボロアパートの一室に戻った。



「先輩。」



「またか。なんだ。」



「どうして夜も出るって、気がついたんですか。」



「あぁ、実は、由美が絵を買う前には深夜まで由美とメールしたりしてたんだ。

だけど、それが突然プッツリ切れてな。本人曰く夜起きていられなくなったらしい。」



あぁ、なるほど、と思った。



たしか由美さんは午前の3時とも午後の3時とも言わなかった。



由美さんは夜にあの男に合う、という恐怖を体験して、二度とそんな目に合わないために3時になる前に必ず寝たのだろう。



寝てる間にそいつが現れるのも相当怖いと思うが。



「それから。」



「まだあるのか。」



「あの男の顔、見えました?」



先輩は得意気な顔をした。



「全部見えた。だけど、あの顔は見ないほうが幸せだとおもう。」


どれだけ酷かったんだ。と思ったが、僕にはもうツッコむ気力もない。




「でも、危なかったな。由美のやつ。乗っ取られかけてたぞ。」




え?という反応をすると、先輩は呆れた顔で言った。




「あいつ、絵を買ったことに違和感を覚えていなかったらしいからな。こいつはやべぇってことで今夜決着にしたわけ。」




あの絵は、人の意識を奪うほどの力があったらしい。



それを聞くと、僕は1つ心配になった。



「先輩、大丈夫ですか?」



「おっ、心配してくれてんの?健気だねぇ。でも大丈夫、私にはもっとヤバめのやつが憑いてるから。」




力なく笑った先輩は続けて言った。



「ま、そいつもついてきちゃってるみたいだけど。」




僕はハっとして部屋の隅を見た。




――いる。




男の笑みは消えていない。




「失せろ。」




トスっ、という音を立てて先輩が投げたナイフは壁に刺さった。




あのナイフだ。




そこにはもう誰もいない。




先輩はため息をついた。




「まぁいいや。」




そう言って先輩は布団に入った。




「今日は泊まってってもいいぞ。」




外で雀が鳴いていた。








2話目 制作協力 コナン君