はじめに


 この記事は2026年9月12日にnoteで公開した記事の前半部分です。後半へのリンクは記事の最後にあります。


 記事中に引用した、日本語以外の言語による文章の訳は、翻訳アプリによるものです。

それに場合によっては私が手を入れています。どちらの場合も翻訳についての責任は私にあります。


 また原文がどんな言語で記されている場合も、そこから引用している文章に、原文にない改行を加えていることが多いですが、読みやすくしようと考えてのことで、文意が変わってしまうような改行は加えてないつもりです。


 それと随所でAIが示した見解を引用していますが、その見解の根拠を把握して裏付けることが必ずしも充分でない場合もあります。そうしたものを含めて、もちろん引用者の私に文責があります。



なぜ悲しいニュースばかりTVは言い続ける
なぜ悲しい嘘ばかり俺には聞こえる
世界のど真ん中でティンパニーを鳴らしてその前を殺人者が パレードしている
忌野清志郎 / Jump




ゆっくりと気がつかないくらいゆっくりと、
しかし確実に進行している地滑りのように、
世界が第3次世界大戦へとなだれ込んでいるようにも
思える日々に以下を記す。


ポールのインタヴューでの発言から 前置きとして

 3ヶ月半ほど前、5月の終わりにポール・マッカートニーの新作「ダンジョン・レインの少年たち(The Boys of Dungeon Lane)」が発表されたわけだけど、それに関連して行われたインタヴューがいくつもあるのを多くの音楽ファンの方がご存知かと思う。

 その内のひとつがイギリスのガーディアン紙による以下の記事。
 このインタヴューでは「ダンジョン・レインの少年たち」のテーマとして、大きな意味を持つ子供時代の記憶について多くが語られる。その中で自身が新生児だった時に両親が世話をしてくれたことについてポールは触れる。
 もちろん両親が生まれてきた子供の世話をするのは自然なことで、それに対して子供が成人した後に、あらためて感謝の念を覚えたりするのは一般的なことだ。
 しかしポールが生まれた1942年という年が、イギリス社会にとってどんな年であったかを考えれば、彼の誕生は両親にとって喜ばしいことであっても、一家に新たな命を迎え育んでいくために、その当時が望ましい状況になかったのも確かだろう。

 何しろ第2次世界大戦の真最中である。それもマッカートニー一家が暮らす街リヴァプールは、戦時中のイギリス社会にとってきわめて重要な港湾都市であり、そのためロンドンと並んでドイツ空軍による集中的な空爆の標的だったのだから。
 リヴァプール・ブリッツ(Liverpool Britz)と呼ばれるその空爆が激しかったのは1940〜1941年だったそうなので、1942年生まれのポールは激しい空爆が収まった頃に、この世にやってきたのではある。
 しかし街がもう、これでもかっていうほど滅茶苦茶に破壊された中で、生まれ育ったわけである。


リヴァプールは1940年8月に最初の空爆を経験し、そして9月には15回、10月には9回とその年の秋の間、定期的に標的にされた。
Liverpool experienced its first air raid in August 1940 and was targeted regularly through the autumn of 1940 with 15 raids in September and nine in October.
上掲Imperial War MuseumのサイトThe Liverpool Blitzのページより



 このインタヴュー記事には彼が《戦時中に新生児だった自分を世話してくれた両親のことを時々思い出すこと》を語ったと記されているが、自身が生まれた頃の状況を考えれば、子育てのためには何かと困難があったことは間違いないわけで、そこで両親が幼子の自らをどんな風に育てていたのかと思うと、言葉に尽くせない想いがポールにはあるのではないだろうか。

 続けて、こう語ったという。《そしてそれをウクライナやガザの現在の状況と結びつけずにはいられない「そこではいつ爆弾が落ちてくるか分からない。その事実と向き合わなければならない」と。》

how sometimes he thinks about his parents, caring for him as a newborn in the war, and how it becomes impossible not to relate it to the current situation in Ukraine or Gaza, “where any second, bombs could be dropping, and you have to cope with that knowledge”.
上掲Gurdian紙の記事より


 自身の幼少時を振り返り、その状況下の両親への想いの深さは、そのままウクライナやガザの現在への想像力、その地で困難な状況下にある人たちに想いを寄せることと直結しているわけである。

 それにしても、これはザ・ビートルズのファンの人たちが皆さん、お考えになるのではと勝手に推測するが、よくぞFAB4の4人、第2次世界大戦下を無事で、と思わないわけにはいかない。
 ポールと、その翌年に生まれたジョージ・ハリスンは、確かにリヴァプールへの激しい空爆は収まってから、この世にやって来たのではある。それにしたって子育ての環境としてまったく充分ではない中で育ったと言えるだろう。
 だが1940年生まれのジョン・レノンとリンゴ・スターの場合は、爆弾が雨あられと降り注ぐ中で育つ乳児だったわけである。

 4人が4人とも無事だったことは、本当に大きな幸運だったと考える他はない。
 4人の内の誰かが、あるいは全員が、爆弾で命を吹き飛ばされたり、破壊された建物の瓦礫の下敷きになって押しつぶされたりしていたかもしれない。
 あるいは戦時中のこととて充分な食料や医療の体制がない中で重い病気になっていたら、ということだって、あり得た可能性であるだろう。

 我々が過去の事実として知る音楽史は、そうなっていて当然のものではなかったわけで、音楽は音楽の世界のことだけで成り立っているわけではないのを改めて意識しないわけにはいかないのだ。

戦火のニュースを聞いて音楽ファンとして思うこと

 前世紀、今から40年近く前のことになるが、1980年代の末に東西冷戦の終結と呼ばれる出来事が起きた。それでどうなるのかと思っていると、1990年代以降、現在に至るまで絶えず世界のどこかから戦火のニュースが伝わってくる。

 冷戦の時代というのは、いつも世界のどこかで(アメリカ合衆国とソビエト連邦の対立の代理戦争としての、ある地域で米ソ間の緊張が発火してしまったものとしての)戦争が始まってしまう可能性がもたらす緊張感は存在し、と言ったって私などだと普段は特に意識しないわけだけれど、それでも心の奥底にいつも引っかかっている、そんな感じであった。
 それも冷戦という事態が終われば、その気がかりがなくなっていくのかと思ったのは大間違いだったわけである。実際のところは、その時点ですでに、そう調子よくいくかなぁという懸念を感じないではなかったのだが、それが正しかったのだ。

 ともかく、そうした戦火のニュースを目に耳にするたびに音楽ファンとして思うのは、音楽が大好きな人の命が奪われているに違いなく、そして命を奪う側の人にも音楽が大好きな人がいて不思議ではないということ

 こんな形で、自身の趣味であると人に思われるのが常識であることを通して、社会のあってほしくはないが、ともかく今は動かし難い現実を見ることが、まず一番に頭に浮かぶのは、世の中の見方として、あまりにも素朴で幼稚で話にならないということになるのかもしれない。

Reverb(残響追加部)※
 音楽家が戦時に人の命を奪うことになった体験を語っていることをネット上の報道で知った。
 1970年代から1980年代にかけて多くのヒット曲があるリック・スプリングフィールド(Rick Springfield)が、あるポッドキャストで、19歳の時、ヴェトナム戦争時に音楽家として兵士の慰問に戦地を訪れて、そうした体験をし、それが思いがけない展開で起きたことでとても辛い体験だったことを語ったという。
2026.09.12(Sat)77歳ミュージシャン、ベトナムで人を死なせた「事実に向き合うのは、つらい」リック・スプリングフィールド告白


80s rocker says he KILLED a man during Vietnam War aged 1915:39 BST 10 Sep 2026, updated 21:59 BST 10 Sep 2026

この件をスプリングフィールド本人が語ったポッドキャスト
Joe Logan Ezperience #2550 Rick Springfield


音楽は社会の根底を支えている

 だが私にとって音楽は、ただの趣味ではないし、では何なのかと言われれば即答し難いけれど、考えていることの結論だけ記しておくとするならば、音楽は人間の心の基盤を支えるものであり、そうであるがゆえに社会の根底を支えてもいる。

 これは音楽にあまり興味がなくて(このことはもちろん非難されるようなことでもなんでもないわけだが)、さほど重要なものだとは感じてなく、それこそ不要不急の分野であると考えている人にとっても、同じである。
 音楽と積極的にかかわらない人の場合(それが間違っているわけでないのは何度でも確認しておきたいけれど)、音楽が人間とその社会にとって何であるか、を明確に意識しにくく、そのことについて認識を持ちにくいのが自然だが、そうした人たちをも含んで(音楽に関心がなくても音楽と関心がある人との関係はあるわけで、そのことで間接的に音楽とつながっていると考えられるのだ、そうした人たちも)、音楽は人の心と、社会の根底を支えている。

 と、この結論だけ記しても説得力はないのは確かである。
 しかし、そのように考える私にとって、戦争は人の命を奪い、建造物など文明を破壊するばかりでなく、音楽の文化を成り立たせている人たちを傷つけ、この世から消し去ってしまうことで、社会の目に見えない基盤を破壊するものだ、ということになる。

 なぜ音楽だけが、そのように特権的なのだ? 美術や文学、演劇とか映画とか、アニメやマンガやゲームは社会の基盤と関係ないのか?! と疑問を呈され、お叱りを受ける、かもしれない。

 簡単にそれに対する答えを記してみようとするならば、音楽が特権的だとするわけではないのだが、具体的な形を持たないものであるがために、今記したさまざまな分野に対して特殊なポジションに位置していると思う。サッカーのゴールキーパーみたいに、他のメンバーとチームの一員であることは同じでも、独自の立場、独特な責任がある。

 音楽が創作の文化、そして社会の中で占める特殊な立場は、そのようなものだと思う。
 だから戦争は、社会の中で大事なポジションを守っている音楽というメンバーをまちがいなく深く傷つけると考えるので、戦火のニュースを聞くとまずそのことを考えてしまうというわけなのだ。
 結局、音楽ファンだから、そんな風に考えるので、何でもかんでも音楽と結びつけずにはいられない音楽バカめ! ということになるのかもしれないが。

冷戦終結後の世界で

 冷戦終結後の世界の動きに話を戻せば、1990年代には、その当時は存在していた国家であったユーゴスラビアで、凄惨を究めたとでも言う他はなく、救いのない内戦が起きてしまった(サッカーに関心がある方にとって、この出来事は現代のサッカー史の一部として認識する他はないだろう、辛いことだが)。

 国際政治に関しては、1990年代に起きた出来事で、もうひとつ忘れ難いことがある。
 1993年にパレスティナ側PLO(パレスティナ解放機構)とイスラエル(当時は労働党政権だった)政府が互いに相手側を承認しあい、和平交渉に入ることを、アメリカの仲介(時の大統領はビル・クリントン)という形をとって(実際のところは、その時点でのイスラエルの首相イツハク・ラビンが親交のあったノルウェーの外務大臣ヨハン・ヨルゲン・ホルストに仲介を求め、ノルウェー側がそれに応じて成立したオスロ合意が前提になって)パレスチナ暫定自治協定が成立したことである。
 これが現在のようなことになってしまう経過、あるいはこの協定が結ばれるまでの歴史、については以下のページをご覧いただきたいと思う。







 21世紀になってからは、2001年のアメリカにおける同時多発テロがきっかけとなるような形で戦火が絶えなくなったのはご承知の通りである(同時多発テロが「きっかけ」とは言ってもあの出来事がゼロから突然生じたわけではなく、それが起こるにいたる20世紀以来のいきさつというものがあるはずで、つまり「テロリスト」という無条件で否定し得る存在が突然、現れたわけではないだろう)。

 現時点では、アメリカ〜イスラエルとイランの対立が収まりそうになく、日本人としては、石油の心配をするのが常識なのかもしれないが、やはり私には音楽に関わる人たちの安否が気になる。

 などと書くとイランの音楽に詳しくて、その素晴らしさを知ることになった音楽家がいて、その人のことを心配しているかのようだが、必ずしもそうではなく、はなはだ間が悪いのだけれど。
 実際のところイランの音楽文化が並々ならぬ奥深さをたたえていることについては、わずかにその一端を耳にしているだけの私にも認識はある。

 ただ、それ以上に何を知るわけでもないが、少なくとも戦火が激しくなっていけば、その豊かな音楽文化を担っている人たち(もちろん音楽に耳を傾けて楽しんでいる愛好家の人を含めて)に命を落とす人がでるだろうことは考える。
 すでにでている犠牲者の中には、小学生が100人以上いたことが報道されているが、当然その中に音楽が大好きな子だっていたはずである(なおよく知られていて言うまでもないことだが、ガザでは何万人もの子供の命が奪われた)。

現在、気になる情勢の中で思いだしたのはあの国のあの歌い手のこと

 けれど、はっきり具体的な名前が思い浮かぶのはレバノンの音楽家のことなのである。

 今回の情勢が収まりそうにない中で、その大きな要因なのがレバノンに対するイスラエル軍による攻撃であり、それはレバノンの武装組織ヒズボラを理由に掲げて行われていることが報道されている。

 中東の現代史に詳しいわけでは、まったくない私だが、レバノンという国が戦火のただ中にある時がきわめて長かったことくらいは知っているから、それに加えての現在の状況というのは、いくらなんでも、酷すぎないか、辛すぎないかと感じる。
 ただレバノンの現実を知る方からすれば、そんな感じ方は甘っちょろいもので、そんなことを言っている段階はとうに過ぎていることになるかとも思う。










 であったとしてもともかく、その情勢の中に多くの音楽家たちがいるはずであることを考えてしまうのだ。
 などと言うと今度はレバノンの音楽に詳しいかのようだが、これについてもまた、まったくそんなことはない。
 ただ、音楽家としてレバノンの社会の中できわめて大きな存在であるというばかりでなく、アラビア語圏各地で20世紀の後半からずっと高い人気、評価があり、とても強く支持されている歌い手がいることは知っていて、ほんの少しだが、その作品も耳にはしていた。
 フェイルーズ(Fairuz)である。

 ローマ字ではFairuzと記されることが多いこの名前は、もちろんアラビア語だが、Wikipedia日本語版のこの人のページによれば
《「ファイルーズ」とはアラビア語で「トルコ石、ターコイズ」の意。
なお、正則アラビア語である現代標準アラビア語では「ファイルーズ」という読み方をするが、口語では一般的に二重母音アイがエイやエーに転じるため、「フェイルーズ」「フェールーズ」と発音されることもしばしばである。》

 この記事では口語の発音ということになる「フェイルーズ」の表記を採用したわけである。
 またローマ字による表記もいくつかあり「ラテン文字ではFayrūz ないしは Fairūz」で、
「英字表記例」として「Fairuz,Fairouz,Fayrouz」があると、やはりWikipedia日本語版ファイルーズのページの冒頭に記されている。
 なおフェイルーズというこの名乗りはもちろん歌手としての名で、本名はヌハード・ワディーウ・ハッダード(Nuhād Wadīʿ Ḥaddād/Nouhad Wadi Haddad)である。


Fairuz1971年(Wikipedia CommonsよりPublic Domain)

 このフェイルーズについて書こうと思うのだ。
 しかしレバノンの音楽について無知であるという以前に、アラブ音楽〜アラブ歌謡全般について知識、理解が乏しいのが実のところである私が、この歌い手に関して何か書こうというのは身の程を知らない行いであるだろう。
 つまりレジェンドという呼称が当てはまる音楽家がいるとするなら、まさにこの人であるフェイルーズについて、私が書こうというのは無謀だと分かる程度の認識はあるのだが、あえてやろうというのだ。
 そんなことを試みる理由が以下に記すところによって明らかになることを目指してはいるのだが、どうなることやら。お付き合い願えれば幸いである。



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レバノンでは」という小見出しの節に飛んでいただければ、そこからが、ここで読んでいただいた記事の続きです。