今日新聞にいじめによる自殺で子供を亡くした父親の記事が載っていた。

私は子供を産んだことがなければ育てたこともない、ましてや自殺で子供をなくしたことなんて一度もない。

だから、この父親の気持ちがわからない。理解しようとしても私にはわからない。

いまから書くことはその上での話。

よって「父親の気持ちになれ、考えろ」という反論は一切受け付けない。


この父親は「子供に背負わせず、大人が闘う」としていたが、私はすごく疑問を感じる。

なぜ子供自身の問題に大人が介入するの?

介入しなきゃ自殺するからだろうか。

大人に介入してもらえなくて自殺するならすればいい。

介入してくれる人がいなくなったら死ぬんだから。

いつまでも介入してくれる大人がいると思ったら大間違い。

いじめは学校に限らず、職場でも家庭内(特に嫁姑)でもあるのだから。


いじめにしろ何にしろ、問題は自分自身で解決するのが基本。

自分の事を自分で処理しようとしない人間は弱いと思う。

処理できる、できないじゃなく、しようとするかしないかの問題。

処理しようとした結果、大人に頼るならそれもそれで一つの方法。

処理しようとするまえにさしのべられた手を取るのなら、それは甘えだと思う。



よく、いじめられる側に原因はないというがあれはバカだと思う、きれい事だ。

原因はたしかにある、原因がないのにいじめられるなんてあり得ない。原因はいつでも結果の源。

いじめに関して原因があるというのは、私が思うに「理不尽な原因がある場合」と「もっともな原因がある場合」の2パターンだ。

前者は「デブだから、ブスだから、背が低いから、人種勝ちがうから」といったどうしようもない理由でいじめられる場合。

これについては有無言わさず、あらゆる手段でやめさせるべき。

これはれっきとした人権侵害、「いじめ」に属すると思う。

一方の後者は「態度が気に入らない、生意気」といった理由。

一見、理不尽に思えるが、被害者が加害者を不愉快にさせる言動をしたからだと考えられる。

この場合、私は被害者と加害者が逆転することもあると思う。

この種の問題は「いじめ」というより「人間関係のトラブル最悪バージョン」に属するように感じる。

被害者は、被害者面していないで自分の言動を振り返れば思い当たることがあると思う。

それに気づいて復帰するか、気づかず(気づこうとせず)復帰できないかのどちらか。

日々、いかに人と円滑に接していくかとういうことに重点がおかれる社会で、円滑にいかなければそれは「トラブル」となる。

そのトラブルが悪化したのがこの後者のパターンだと思う。


にもかかわらず後者のほうも「いじめ」とひとくくりにされているのが納得いかない。

明らかにコミュニケーション能力やコミュニケーション不足なのを無視して「トラブル」を「いじめ」と騒ぎ立てる。

だから被害妄想は拡大する一方だし、ナーバスになっていくのだろう。


「いじめだ」と思う前に、それは本当にいじめなのか、ただの人間関係のトラブルではないのか…

また、自分の日々の言動はどだったかと振り返ることも必要だと思う。

それができれば、それは「解決しようとした」ことになると思う。

それでもダメなら遠慮なく自分から手を伸ばせばいい。