高校生の頃、先生が語る世界史の壮大さに心を奪われ、
大学でも西洋史学という最も世間の役に立たなそうな学科を選んでしまった役立たずは私です。

世界史一辺倒のおかげで日本史にはとんと疎かったりもするんですが、
ちらほら歴史関係の本を読むと、やっぱり日本史もすごく面白くて、ああもう少し勉強しとけばよかったな~なんて後悔したりしています。

事実は小説よりも奇なり。
壮大な歴史の流れの中には、本当に尽きることのないロマンがありますからね。


ところが最近、「歴史なんて大河ドラマ見てれば十分だから、そのぶん学校でプログラミングを教えたほうがいい」とかいう、いわゆる勝ち組の方々からの意見があったりしますよね。

これにはたまげました。

そりゃあ確かに、プログラミングやら何やら学んだほうが、即戦力にはなるしお金も稼げるかもしれませんよ。
歴史の年号覚えたところで、技術開発の役には何一つ立ちませんよ。

でもね。
私はそういうのって、なんか貧しいなあって思うんです。
お金もってるかもしれないけど、なんかすごく貧しい。


きちんと歴史をたどってみるとね、大昔から今に至るまで、
人間の悩みや喜び、営み、繁栄、没落、
そういったものの本質って、何一つ変わってないんですよね。

歴史は繰り返す。
繰り返して繰り返して、螺旋のようなその積み重ねで、ようやく今があるんです。

過去の名もなき人々の営みや努力を知り、そこに対して敬意を払うことは、決して無駄なことではないと私は思いますし、それを無駄だと言って排除するような世の中にはなってほしくないなと、心から思います。


温故知新。

過去をないがしろにする人が、新しい未来を切り開くことはできません。
だってそれはもしかしたら、過去においてすでに誰かが通ったことのある道かもしれない。
その先には破滅が待っていることを、すでに経験した誰かがいたかもしれない。

幾度となく繰り返されて来た戦争も、過去を忘れることで起こり続けました。

「今度は違う」
「自分たちは過去の人間とは違う」
「かつてないこの文明を築き上げた自分たちは、未だかつてない特別な人間だ」

そんなふうに安易に過去を見下し、不遜な態度で行動を起こせば、
そこには結局、同じ過ちの繰り返しが待っています。


歴史を学ぶということは、
自分たちもしょせんは歴史の礎のかけらでしかない、ということを自覚すること。

謙虚に先人に学び、少しでもよい環境を次の世代に渡せるように行動することだけが、
今を生きる私たちにできる最良の道なのだと、

そんなふうに、世界史マニアなひとつのかけらは思ったのでした。