すいません、最近もやもやしていたことを書いちゃいました。
って、まとまってないんで意味分かんない感じで長いんですけど。
けっ、何言ってやがる、という方も多いかもしれませんが、
一個人のシロート意見です。ご容赦ください。
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ワインというのは、いや料理もそうですが、個人的な味覚や感覚にその価値判断をゆだねなければならないものというのは、本当に難解でありますね。
速さや高さを競うものなら、誰が見たって一目瞭然。
文句なく世界統一規格でランキングができる。
でも、ワインはそうもいかない。
味も香りも、明確に数値化できるものじゃない。
たとえ数値化したとしても、それは一瞬一瞬で表情を変えるものだし、
さらにそれが個人の口の中に入ってどう感じられるかは、まさにその人が持つ感受性と脳内判断によるものでしかない。
ちょっと考えれば、世の中で自分と同じ感覚と思考回路を持つ人間が存在するなんてありえないってことはすぐわかるわけで。
となれば、ワインの味わいなんてのは、十人いれば十人とも違ったように感じられるのが当然ということになる。
たとえばAというワインがあって、ある人は「これは美味しいな」と感じ、ある人は「これはまずいな」と感じる。
それは納豆が好きな人と嫌いな人がいるように至極当たり前の感覚で、それぞれの人の「個性」だとしかいいようがない。
だから、納豆が嫌いだという人に向かって、「あなたは間違ってる、納豆は美味しいのだ」って本気で力説する人はそうそういないように思う。
でもワインの場合、「このAというワインはいいワインだから、こういうのを美味しいと思いなさい」なんてふうなことを平然と言い放つ人が意外とたくさんいる。
しかもそれを、「ワイン講師」的な立場でやったりすると、価値観の刷り込みみたいな形になってまことによろしくない。
たとえばあるワインの先生が日本のワインを飲んで、
「これはまあいいけど、チリワインに比べたら割高ですね」とか、
「このワインはやぼったくてとても美味しいとはいえませんね。」というようなことを言ったとする。
その先生は、「味わいを客観的に評価したまでよ」というのかもしれないけれど、
大体において「味わい」ってのは主観だから、「客観的に評価する」なんて言葉自体がおかしい。
割高かどうかなんてのはチリワインを嫌いな人にとっては全く解せないことだろうし、
ましてや「これは美味しくないワインだ」なんて、隣でこれを美味しいと思ってこれを飲んでる人にとっては失礼極まりない発言だ。
これがフランス人なら、「美味しいか不味いかは自分で決めるよ!」ってバッサリ切るところなんだろうけど(そもそも、フランスで一般人相手にワインの先生なんて聞いたこともないな・笑)、
日本人は素直だから、「ああ、こういうの美味しいって思っちゃいけないんだわ」とかってなる。
そしたら、この時点でその生徒さんたちの頭の中には一枚のフィルターがピタッと貼られ、
日本のワインを飲むたびにチリのワインと比べたり、これが美味しいと言えるのかどうかを考えたりしなくちゃいけなくなる。
さらに日本人は勉強熱心だから、ワインを「正しく」味わなくちゃ、ワインの香りを「正しく」表現しなくちゃとかってなって、
「これは美味しいワインですか?」とか「この表現であってますか?」とかびくびくしながらワインを飲み始め、
その基準が板についてくると、今度は堂々とその「一般的な価値観」を振り回しながら周囲にワインを語り始めるようになる。
でもそれって「ワインがわかるようになった」わけじゃなく、「既存の嗜好に自分を慣れさせることができた」ってだけで、
没個性もいいところだ、と私は思う。
画一的な価値観というのは恐ろしい。
飲み手に「ワインはこういう味わいじゃなきゃいけない」みたいな画一的な嗜好が強くなりすぎると、
どうしたって作り手も揃ってそういうワインを目指すようになる。
世界中どこへ行っても、同じようなワインが作られる。
それについては、タケダワイナリーの岸平さんも同じような不安を語っていた。
「グローバルスタンダード」は確かに必要だけれど、それが絶対的な価値観になるのは危険だ、と。
ワインの魅力の一つである「多様性」が、どんどん薄れていってしまう、と。
じゃあ、ワインは銘柄なんて関係なく、自分の好きなものだけ好きに飲んでりゃいいんじゃないかという人も最近は多いけど、それもまたちょっと違うと私は思っていて。
何度も言っているように、ワインはオペラやバレエなどの芸術と同じ。
蘊蓄や押しつけの価値観は要らないけれど、本当に楽しむためには最低限の知識がどうしても必要だ。
今まで知らなかったそのワインの歴史や背景や作り手たちの想いを知ることで、
単なる美味しさが感動に変わることって絶対ある。
感覚と知識が重なることで、初めて「美味しい」以上の感動が生まれてくる。
それは、ワインは歴史の中で人が生み出してきた芸術だから。
人を感動させるのは、あくまでも人。
ワインは人によってつくられるからこそ、その想いが人に感動を与えることができる。
どんな人たちが作ったワインなのか、どんな想いが込められているワインなのか、
そして、彼らの想いの詰まったワインを、どんな時に飲んだらより楽しめるのか。
私たち飲み手にとって必要なのは、そういった「ワインを愉しむための知識」であって、
ワインを「正しく」表現するための知識じゃない。
その知識をもとにして、自分が素直に「美味しい」と感じ、感動できるものを楽しめばいいんだと思う。
作り手への敬意を忘れて目の前のワインの味だけを機械的に評価するんじゃあ、
せっかくのワインもたいして美味しく感じられないでしょう。
このワインは美味しいかどうかなんて、他人に教わることじゃない。
他人に教えるべきものでもない。
恐れ多くもワインの先生なんて呼ばれる立場に立つとき、
少なくとも私は、そういうつもりで生徒さん達に接している。
多種多様なワインのいいところを紹介し、その楽しみ方を紹介する。
だって、生徒さんは作り手さんでもソムリエさんでもないんだもの。
客観的な市場評価やら細かな官能表現なんてのは、
彼らが自分たちのワインを向上させるために使えばいいだけのこと。
私たちは、彼らが作ってくれたワインを自分流に楽しむ方法を探していけばいいんです。
ワインは人と同じ。
「みんな違って、みんないい」んだから。
そういう自由な価値観でワインを楽しむ人は凄く増えてきたと思うし、その新しい価値観の中で日本のワインも受け入れられ始めてきたんだろうと思う。
それでもいまだに、型にはまったワインの表現方法や価値観を教え込む人が多いのはどうしてだろう。
それだけ「客観的に」ワインを評価できる力のある先生方は、
むしろ作り手さんたちに対してしっかりと意見を述べてほしいなと思う。
「こうしたほうが競争力があがる」とか、「こういうところが改善されるべきだ」という意見はとても重要だけれど、
これは飲み手に対してではなく作り手に届いて初めて意味を成すものでしょう?
そうでなければ、ただの陰口で終わってしまう。
真に彼らのためを思って発せられた言葉であれば、真摯な作り手たちはしっかりと受け入れ、
これからのワイン造りに生かしてくれるはずですよ。
私なんかにできることは少ないけれど、一人でも多くの先入観を持たないワインラバーを増やしていくことで、
日本ワインの未来に貢献できたらいいなと思います。