こんにちは、皆さん。今回は、マウント姿勢を持つ一部の著名人についてお話ししたいと思います。
彼らの目を見ると笑っているように見えますが、その目の奥には危なっかしさが漂っていることに注目してみましょう。
私たちはテレビやインターネットを通じて、多くの著名人の活躍や成功を目にします。彼らはしばしば自己主張をし、他者を上回ろうとするマウント姿勢を見せることがあります。
しかし、彼らの目をじっくりと見つめると、微妙な違和感を感じることがあるのではないでしょうか?
彼らの目は笑っているように見えますが、その笑顔には一瞬の獰猛さや冷酷さが見え隠れしています。サメのような鋭い眼差しや、危険な光を宿しているように感じる瞬間があるのです。彼らは成功への執着や競争心に取り憑かれているのかもしれません。
このような著名人のマウント姿勢には、さまざまな要因が関与しています。社会的な評価や承認欲求の圧力、競争社会の中での生き残りをかけた戦いなどが考えられます。
彼らは自分の地位や名声を守り、より高みを目指すために、時には手段を選ばずに行動することもあるのかもしれません。
しかし、私たちは彼らのマウント姿勢に踊らされる必要はありません。彼らの眼差しや笑顔の裏に潜む危なっかしさに気づき、冷静に対応することが重要です。
まず、自己の価値観や幸福を見失わないことが大切です。彼らの成功や競争に囚われるのではなく、自分自身の成長や幸福を追求することに焦点を当てましょう。他者との比較ではなく、自己肯定感や内面の豊かさに重点を置くことで、彼らのマウント姿勢に対して影響を受けずに済むでしょう。
また、彼らの行動や言動に対して批判的な目を持つことも大切です。彼らが虚しさや孤独を埋めるためにマウントを取る姿勢を見せる場合、そのうわべの幸福や成功に疑問を持つことができます。
私たちは自分自身の価値観に忠実であり、他者の行動を客観的に評価する力を持つべきです。
彼らの笑顔の裏に隠された危なっかしさを見抜き、冷静に対応することが重要です。自己の幸福を見失わず、自己肯定感を高めながら、真の豊かさを追求する道を歩んでいきましょう!
さて私は「宿題もAIがやってOK」と言う立場なのですが、これに似た様な私の価値観に「試験でのカンニングもOK」(笑)と言う物があります。
猛勉強して試験に合格してもカンニングして合格しても、結果として「合格」したのだから、その人には「合格するべき何らかの能力が認められる」と言う事になります。
カンニングは見つかる可能性もあるので、真面目に勉強する時間をわざわざ見つからないカンニングの手法や実践をする為に費やすのですが、
真面目に勉強する人もカンニング者も「合格」に向けて頑張る、そして途中のプロセスは全く考慮せずとも結果として「合格」したのだから、その功績は与えられると言う物です。
これは敵の将を倒すのに、真正面から馬に乗って進むのか、夜に暗殺者を送り込むのかの違いに似ていると思います。
変な手を使ったとしても結果として目標は達成できてしまうのだから、そう言った手を使う者も生存競争の中で存在しうると言う事でして、国でいえばロシア・北朝鮮がこれに近いのではないかと思うのです。
もちろん周りから見れば評価は悪くなり、カンニングであれば一生涯、学歴詐称的な疑いをかけられる可能性もある訳ですが、それも含めた上で結果的には「合格」したのだから「労力や苦労は同じ」と言う事です。
例えば近未来、頭で考えただけで、目的とする答えが目の前に表示されるウェアラブル・コンタクトレンズがあり一生涯に渡ってそれを装着するならば、暗算せずに電卓を使うのと同じ事で問題ありません。
暗算が出来なく電卓が無ければ最悪、森にでもいなければ100円ショップで電卓を買えば良いだけで、違いはその時のみの「時間のロス」になります。
しかし常に電卓が世に存在すればそれは気になりません。
「そんな便利さに頼ると頭脳が低まる」とも思えますが、この場合AIを使うと言う前提で起きる「新しい物の考え方」の数々に思いを巡らす方向性で頭脳は発展していくので、人間の頭脳の方向性は変わりますが頭脳の質の高低自体は変わりません。
これは馬車使いの頭脳と車の運転者の頭脳の違いであって、どちらが良いか悪いかの問題でなく方向性の問題です。
しかし一般的に古い技術の事は現代人は知っている傾向があるため、馬車使いの頭脳の方が低く簡単だと思われがちだと思います。
ただ馬車使いがどれだけの頭脳を使ったのかは体験しないと分からず、生物的に同じホモサピエンスと言う動物であれば時代はいつでも頭脳の質は同じだと私は思うのであります。
前に戻ると、宿題はAIがやってもOKで、一生涯、宿題をAIにやってもらわなければならないと言う依存が起こる訳ですが、(しかしAIの出力を例として学ぶ事にもなる)
宿題以上の事柄が発生しそれらを人間が考え、その部分で人の頭脳は育てられていくと言う時代になると言う事なのです。
さて前の文で書いた「カンニングOK」と言うのは、そもそも特に受験と言うのは将来の為の知識吸収が目的ではなく「この人物の頭にどれだけの物を詰め込めるか」のテストに過ぎないからです。
人の脳の「忘れる」と言う性質を知れば全ての長期記憶は無理であり、長期記憶しただけでは単に大人になってからの「知識みせびらかせマン」になる事もあり得ます。
そして現在、人の想像力から得た未来産物で多くの物が今だ実現されていません。
例えば火星都市を作り移住を実現させるその必要作業量を一兆ポイントだとか一京ポイントだとします。
それに対して前述した宿題をAIがやるかどうか?や合格の為にカンニングするのかどうかは?それがどう変わったとしても得られる作業量は10とか20くらいです。
現状その中で起きているニュースをけしからんと思っていても、それがあってもなくても差異はポイント10くらい変わるのみです。
それだけ小さな事柄を大きく捕らえて「けしからん」と言っている訳です。
なぜ言うのか?それは日本人がある種のドーパミン中毒と言うものに陥っているからです。
自らの正義感や理論の整合性を架空のステージで露わにする事で、自らの脳からドーパミンが発生し、その中毒になっているのです。
動き実践する事でもドーパミンは発生しますが、何もせずに「言うだけ」と言う「架空の実践行為」でもドーパミンは気軽に発生できてしまう為にいずれはそうなってしまうのでした。
話は戻り、逆にもし少ない労力でカンニングし難関を突破し合格した者がいれば、その人に火星開拓をしてもらえばどんな感じになるだろうと思いますが、
イー〇ンマスク氏とかも実はそんなカンニング体質なのではないかと思うのです。
多くの人々が自ら正義と理論整合性を持ち、しかし私達の誰もがあの様になれないのは一体なぜなのか?と言う問いを今回の文で私は書いたのかもしれません!![]()
こんにちは、皆さん。
今日は「でいやあ!でいやあ!」と腹の底から声を出す程に頑張る必要性についてお話ししたいと思います。
この言葉が持つ精神的な力や意味合いを深く掘り下げ、私たちの生活や仕事にどのような影響を与えるのかを考えてみましょう。
「最大限の努力と情熱の象徴」
「でいやあ!でいやあ!」と心で念じることは、最大限の努力と情熱を注ぐことの象徴です。日々の生活や仕事において、全力を尽くすことは簡単ではありません。
しかし、この掛け声を心の中で繰り返すことで、自分に対して最大限の力を引き出すよう促します。これは、どんなに困難な状況でも諦めず、全力で取り組む姿勢を保つための強力な手段です。
「困難を乗り越えるための精神力」
人生には、多くの困難や試練が待ち受けています。
そのような時に心の中で叫ぶことで、困難を乗り越えるための強い精神力を得ることができます。
この掛け声は、自分自身に対する励ましと勇気を与え、逆境に立ち向かう力を養います。
「一貫性と持続性の重要性」
「でいやあ!でいやあ!」と繰り返し思うことは、一貫性と持続性の重要性を強調します。何事も一度だけの努力では成果を得ることは難しいです。
継続して努力し続けることで初めて結果が現れるものです。この掛け声を心の中で繰り返すことで、日々の努力を怠らず、一貫した行動を維持することの大切さを再認識することができます。
「自己突破と限界の超越」
掛け声は、自己突破と限界の超越を象徴しています。自分の限界を超えるためには、精神的な強さと決意が必要です。
この掛け声を使うことで、自分自身の限界に挑戦し、それを乗り越える力を引き出すことができます。これは、自己成長のための重要なステップです。
「集中力と専念の向上」
集中力と専念は、成功を収めるための鍵です。
心の中で叫ぶことで、集中力を高め、目の前の課題に全力で取り組む姿勢を強化します。
これは、仕事や学業、スポーツなどあらゆる場面で高いパフォーマンスを発揮するために不可欠な要素なのです!ありがとうございました。
2020年代に入ってからは不明ですが、六本木(外苑東通り付近)には六本木オタクの様な人もいるのではないかと思います。(笑)
一つは秋葉原の様な風貌でそのまま六本木に居る人で、街の背景からは少し浮いてますが、
まあ近くに住んでるのかなとか仕事帰りで六本木に辿りついたのかなと言う感じです。
もう一つは六本木らしい風貌なのですが六本木でしか有効ではない様な感じです。
よく見ると六本木だけに常にいる様な六本木に昔から居る様な割と30歳以上の様な人です。
簡単に言うと昔から六本木で働いているスタッフさんみたいな感じです。
遠くから見ると若く派手なのですが良くみると普通の飲食労働者みたいな感じです。
近年はファッションの流行的にはユニクロや無地・地味なアースカラーになっているので、
例え寝起きのままパジャマやスウェット上下で六本木に出向いてもB系みたいになって
夜景が無理やり自分に合わせてくれるかもしれません。
六本木がオシャレ等と言うのは恐らくスーツが溢れたバブル時代までではないですかね。
でもこの頃は日本は欧米かぶれでしたので、歴史的にも現在までも日本人が土着民族であるのは変わりないと思われます。
しかし近年、外苑東通りの南地区は「第二六本木ヒルズ建設プロジェクト」(日本最大級の再計画)にて
なんと六本木の街が解体され半分くらいなくなりますので(凄い)、
地方など例えば数年に一度、六本木に度々来られた人などは
今の内に再度見ておいた方が良いと思いますね。




