さて、ここに書いた事は誰かの画面に表示されるのがネットと言う物です。

 

そして例えば私が「スマホが良い」と言う論を書いた場合、ガラケーを使う人の全てを一くくりにしての反論となる訳ですが、実際に個別にガラケーを使っている方がいて話を聞いたら私も「ガラケーも良いですね」と言うでしょう。

 

その様にして私の文は勿論、絶対ではなく仮説や提案・自由執筆でもあります。

 

ただしネットと言うのは自分に当てはまる反論が書かれていると、相手と全く面識や交流が無いのに、自分の事を言われている様に感じて怒る方がいます。

 

よくネットを観覧していて「それは違う」と思うかもしれませんが、人の話を何でも否定から入ってしまうと、そう言う風潮では誰も何も書く事が無くなってしまい、何も得られないでしょう。

 

書き手も無料で書いていて、それを読む御自身の存在は知らないのですから、それを心にとどめる必要もあります。😀

例えば格言を聞いた時、それは「社会で広く受けいられてきたからこそ本質だ」と思う訳で、本当の意味での適合性を考える事はありません。

 

ひな祭りが何故三月三日に行われるのか大した問題ではないと感じるのと同様に、頭にその言葉が思い浮かびあがって、自動的にその様な意思に方向が向いてしまうのです。

 

格言はそもそも根拠は自分で考えないで済ませる為のキャッチコピーであるがゆえに、この様にして格言は思考を停止させるのです。

 

ただし格言は、あまりにも響きが良いがゆえに現代人にも強力な影響力を及ぼしてます。

 

よってこれからの時代は古きこれらの格言と同等な響きを持ち、かつ全く違う正反対の意味の格言を新たに作り出して人々に普及させなければなりませんし、その様な新格言の語り手が必要とされるのではないでしょうか?

 

古い言葉に動かされると時として破綻に向かいます。

・機能性や耐久性を重視してデザインを疎かにしています。

・ものづくりにおいて耐久性や機能性を向上させることを人工知能が担うことになれば今度人間は何をやるのかということになるのです。

・ものづくりが重要だった時代とは異なり 今後は目に見えるが、また見えない価値でもあるデザイン それを追求することの 幸せや長期全体的効率性(気分良くなることで発生する)が 日本でも 気付かれる時代になると思います。

・私はコンピューターの頃からアップル使ってなくてスマホも Android なんですが Apple というのはそういうところがすごくわかっている企業だと思います。

(タレント様の敬称略)

最近、お笑いを見てないのですがゲームでも少しギャグを取り入れているので、今後機会あればシュルレアリズム系のお笑いの研究をして記述できればと思います。果たしてシュール・ギャグが学術的に体系化され記述されているのか?お笑い雑誌などではあるかもしれませんが、何をもってシュールなのか?と言う部分もあります。

私の視点で言うと、まず松本人志氏がダウンタウン浜田氏と総合的なタレント人気活動をしながらも、ソロプレイヤーとしてシュール芸人の比率が高いと思う。

あとはフォークダンスDE成子坂が群を抜いてます。優越つけるのは申し訳ありませんがシュールでは成子坂の方が上でシュールに特化しているがゆえに絶大的な人気は獲得できなかったのではと?

結局、時代的には人気を得た者が「開発者」みたいな感じなので、いろいろな芸人さんがいる中でも、こちらの二者が90年代シュールの開発者となるでしょうか?

あと最近ではドキュメンタルで知った天竺鼠・川原さんが見て面白かったです。あの無表情度は群を抜いていて、通常のレベルの人間では体現することが困難であり、まずシュールに陽気さや明るさは基本厳禁な部分があるのでシュールギャグプレイヤーとしては非常に優れているのではないかと思います。ドキュメンタルでも最後まで生き残ったので。

シュール的な能力と言うのはトップタレント&芸人の能力とは相反する部分があると思います。なにか静かに変な事をやっているタレントが明るいバラエティや司会を出来るのか?と言う部分でですね。だからダウンタウン人気と言うのは浜田さんの能力が非常に強く効いていると思います。さて松本氏が「芸」で浜田氏が「パワー」だとすると、これを一人で体現したのがビートたけしと言う事でしょうか。

今や若い世代にも、我々に対してもその記憶は薄らいで行くのは避けられませんが、今やYoutube時代、ビートたけしの全盛期が見られ、いかに凄いのかが分かります。高スピード漫才の究極の姿です。たぶん当時ビートたけしの完璧な芸を見て諦めた漫才師さんも多かったのではと。

以上が「商業的なプロ芸人」だとし、商業以外で挙げるとすると、なんとビートたけしやダウンタウンに匹敵、あるいは超越する方がたった一人おられます。

 

「横山やすし」さんです。(笑) (芸風は陰陽でいえば、圧倒的な陽です。)

 

もちろんプロ芸人さんですが、プロを超えて人生そのものが漫才であり、もう凄すぎてそのパワーが自分に向いてしまったゆえ自滅してしまった伝説の漫才師です。

 

プロレスで言えば馬場猪木がプロの最高値だとすると、それを超えてしまい闇のパワーで滅んでしまった短命の力道山の様でもあります。

この「やすし」の圧倒的な陽のパワーを松本人志はコント「やすしくん」で吸収したのではないかと思います。このコント時に松本人志に横山やすしが乗り移っていたのは可能性として高く、このコントを演じる事で、コンビではなく単体では決して「やすし」や「たけし」の様な陽を表現できない「陰の松本」に「陽」の要素が組み合わさり、さらなる芸人としてのキャリア・アップに繋がったのではないかと考えます。普通の松本氏では、やすしには絶対になれないからです。

さて、話をシュール(陰)に戻します。たけしの挑戦状のCMで機械的な部屋で、たけしが無表情で墨を磨っているのですが、あれもシュールであり、恐らく言葉として浸透してなかったけど業界的にはシュールの可能性や演じる芸人はいたかもしれません。ただ当時のテレビで、それは大丈夫なのかと言う想いもあったと思います。

たけしの映画も全体的にシュールであり、映画においてはたけしは完全に陰陽の陰でありますね。


ネット民のお笑いレベルの低さ & 松本人志研究

 

(以下、タレント様の敬称略あります)

先日ネット民とお笑いの関係性を書いた訳ですが、とにかく私が感じるこれらの違和感は、その笑いのレベルの低さなのです。

例えば一回笑えば良い物を小林幸子さんラスボスとかやインターネット・ミーム的な物で、いつまでもウケている。本当の笑いを知らずに周り(ネット上)が受けているからつられているのではないかと思うのです。

つまりネット上でさえ人の顔色をうかがいながらでないと安心して笑えないと言う気質なのでは?と。つまり怖がりで自分を持ってないのです。「これは笑うシーンなのか、そうではないのか」。いちいち笑う物に対しても他者が指針になると言う感じ。

さて「笑い」と言う感性的な物にレベルの高低があるのか?ですが、私はかつて松本氏が良く言っていた「笑いのレベル」と言うのは私にはあると思う。

もちろん個々によりますが、例えば番組ドキュメンタル(ルール:笑ったら負け)で、物が弾けてAさんの顔に当ると思ったら隣のBさんの顔に当った。これはこれで意外性はありますが、日常的な現象でもあり数人が笑いました。これを松本氏は「なんだ?このクオリティの低い笑いは?」と言いました。

この様な感じで松本氏の標榜する笑いの一つは「これは面白いですよ」と提唱されたかの様な状況で起きた、誰でも分かるズッコケの様な物ではなく「リアルの中に潜む静かな違和感」だと私は思っています。

例えばコント映像名は忘れましたが、浜田氏が演じる部屋探し人が松本氏演じる中年メガネ不動産屋を訪れた時に、2人で向かい合って机に座り、しばらくして松本氏が良い部屋を見つけたと思ったら、突然「あっ、これだ!」と言って、咄嗟にメガネを手にとって机に頬り投げます。(これが癖なのか悪気はなく)。

 

・・・そしてまたメガネを手にとって再度これを繰り返すのですが、実際にはこれは非常に失礼で現実だったら「なんだこいつ」と絶対思う訳ですが、この様に本当にいるかもしれないけどかなり違和感ある人物の挙動です。

ここでは浜田氏は、つっこむ訳ではなく、その挙動をただ傍観し、そこに「ドリフ大爆笑」の様なオバサン達の笑い声がミックスされる訳ではないのですが、この異常な状態。静寂なるお笑いです。

例えば、この様に必ずしも笑わなくても一つのドラマシーンとして見れてしまうが、明らかに変で笑ってしまう。どこにこんなヤツがいるんだ、と考えると笑えてしまうと言う様なシュルレアリズムなのです。

文字では非常に伝えにくいですが、以上、


私の経験上「ワロタ」を連発するネット民は、例えば、この類のお笑いは理解できないのではないかと思ったのです。ですからドキュメンタルのレビュー等は賛否が分かれたり良くなかったりするのです。松本氏は、そもそも、日常リアルな現象の中に潜む、分かりにくいアングラな笑いをメジャーに持ち込み、脱昭和的な、その斬新な方向性で島田紳助さんにコンビ解散を決断させた程の芸人ですが、これは感性の違いですから、分からない人はそれで良いと思うのです。

ただ、自分の至らなさの対症療法として、ネットで人を安易に揶揄する生活はいけませんよと言う事です。