さて私は「宿題もAIがやってOK」と言う立場なのですが、これに似た様な私の価値観に「試験でのカンニングもOK」(笑)と言う物があります。

 

猛勉強して試験に合格してもカンニングして合格しても、結果として「合格」したのだから、その人には「合格するべき何らかの能力が認められる」と言う事になります。

 

カンニングは見つかる可能性もあるので、真面目に勉強する時間をわざわざ見つからないカンニングの手法や実践をする為に費やすのですが、

 

真面目に勉強する人もカンニング者も「合格」に向けて頑張る、そして途中のプロセスは全く考慮せずとも結果として「合格」したのだから、その功績は与えられると言う物です。

 

これは敵の将を倒すのに、真正面から馬に乗って進むのか、夜に暗殺者を送り込むのかの違いに似ていると思います。

 

変な手を使ったとしても結果として目標は達成できてしまうのだから、そう言った手を使う者も生存競争の中で存在しうると言う事でして、国でいえばロシア・北朝鮮がこれに近いのではないかと思うのです。

 

もちろん周りから見れば評価は悪くなり、カンニングであれば一生涯、学歴詐称的な疑いをかけられる可能性もある訳ですが、それも含めた上で結果的には「合格」したのだから「労力や苦労は同じ」と言う事です。


例えば近未来、頭で考えただけで、目的とする答えが目の前に表示されるウェアラブル・コンタクトレンズがあり一生涯に渡ってそれを装着するならば、暗算せずに電卓を使うのと同じ事で問題ありません。

 

暗算が出来なく電卓が無ければ最悪、森にでもいなければ100円ショップで電卓を買えば良いだけで、違いはその時のみの「時間のロス」になります。

 

しかし常に電卓が世に存在すればそれは気になりません。

 

「そんな便利さに頼ると頭脳が低まる」とも思えますが、この場合AIを使うと言う前提で起きる「新しい物の考え方」の数々に思いを巡らす方向性で頭脳は発展していくので、人間の頭脳の方向性は変わりますが頭脳の質の高低自体は変わりません。

 

これは馬車使いの頭脳と車の運転者の頭脳の違いであって、どちらが良いか悪いかの問題でなく方向性の問題です。

 

しかし一般的に古い技術の事は現代人は知っている傾向があるため、馬車使いの頭脳の方が低く簡単だと思われがちだと思います。

 

ただ馬車使いがどれだけの頭脳を使ったのかは体験しないと分からず、生物的に同じホモサピエンスと言う動物であれば時代はいつでも頭脳の質は同じだと私は思うのであります。

 

前に戻ると、宿題はAIがやってもOKで、一生涯、宿題をAIにやってもらわなければならないと言う依存が起こる訳ですが、(しかしAIの出力を例として学ぶ事にもなる)

 

宿題以上の事柄が発生しそれらを人間が考え、その部分で人の頭脳は育てられていくと言う時代になると言う事なのです。


さて前の文で書いた「カンニングOK」と言うのは、そもそも特に受験と言うのは将来の為の知識吸収が目的ではなく「この人物の頭にどれだけの物を詰め込めるか」のテストに過ぎないからです。

 

人の脳の「忘れる」と言う性質を知れば全ての長期記憶は無理であり、長期記憶しただけでは単に大人になってからの「知識みせびらかせマン」になる事もあり得ます。

 

そして現在、人の想像力から得た未来産物で多くの物が今だ実現されていません。

 

例えば火星都市を作り移住を実現させるその必要作業量を一兆ポイントだとか一京ポイントだとします。

 

それに対して前述した宿題をAIがやるかどうか?や合格の為にカンニングするのかどうかは?それがどう変わったとしても得られる作業量は10とか20くらいです。

 

現状その中で起きているニュースをけしからんと思っていても、それがあってもなくても差異はポイント10くらい変わるのみです。

 

それだけ小さな事柄を大きく捕らえて「けしからん」と言っている訳です。

 

なぜ言うのか?それは日本人がある種のドーパミン中毒と言うものに陥っているからです。

 

自らの正義感や理論の整合性を架空のステージで露わにする事で、自らの脳からドーパミンが発生し、その中毒になっているのです。

 

動き実践する事でもドーパミンは発生しますが、何もせずに「言うだけ」と言う「架空の実践行為」でもドーパミンは気軽に発生できてしまう為にいずれはそうなってしまうのでした。

 

話は戻り、逆にもし少ない労力でカンニングし難関を突破し合格した者がいれば、その人に火星開拓をしてもらえばどんな感じになるだろうと思いますが、

 

イー〇ンマスク氏とかも実はそんなカンニング体質なのではないかと思うのです。

 

多くの人々が自ら正義と理論整合性を持ち、しかし私達の誰もがあの様になれないのは一体なぜなのか?と言う問いを今回の文で私は書いたのかもしれません!びっくり