式~劇~そして式
出かける予定を立てていても、その直前になったら、なにやら行くのが億劫になってくるってことはないだろうか。
まあ、最近かなりいろいろ億劫で、原因はわかっているのだが、それについてはまた、あらためて書くとして。
二日間でお葬式と結婚式に出席し、その間に芝居を観劇した。
葬式も結婚式も、どこかしら演劇的な要素があるものだ。
つまり短い間に立て続けに演劇的なものを体験して、いろいろと考えるところもあった。というわけだ。
直前になって、行くのが億劫になるのは、やっぱり葬式だ。
知り合いの死をできれば実感したくないし、知り合いじゃなくても残された家族が泣いてたりするのを見るのはこちらも気が滅入る。
ただ、なんとか気合いを入れて出席してみれば、いつもやはり行ってよかったと思えるのも葬式だ。
おごそかな空気の中で、人の一生、人生を感じさせられる。
人の生きて来た命の尊厳というものを考えると同時に、人間終わってしまえばおしまい、過去のもの、だから現世の執着が馬鹿馬鹿しいといった、さっぱりした悟りのようなものも感じる。
なによりその人との、最後のお別れというケジメがつく。
別れとはきっぱりしていることが大事なのだ。と思った。
午前中に葬式から帰り、喪服を着替えて、三軒茶屋に。
戸田恵子姉さんの「なにわバタフライ」を観るためだ。
一人芝居は私もやったことはあるが、確かにしんどい。体力だけでなく精神的にも。
それでなくてもくそ真面目でガッツリ入れ込むタイプの姉さんのことだ。
毎日がもうかなりのハードワークであるらしい。
結果はもちろん素晴らしかった。三谷さんの脚本もいいが、演出がシンプルで潔い。
それでも楽屋の姉さんの顔は全く晴々していない。
まあ、気持ちはわかるが。
ご存知の方もいるだろうが、「なにわバタフライ」 はミヤコ蝶々さんの半生を描いた一人芝居だ。
原作は「女ひとり」、本人が書いた自叙伝である。
ドラマにもなったし、本人による芝居にもなった。私も見て知っている。
そのままでホントにうまく芝居になるような波瀾万丈の人生である。
元が面白いのだから三谷さんも有利である。
しかしこの芝居がとくに優れているのは、ミヤコ蝶々を百パーセントのいい人に描いていないところだ。
本人が自伝で美化しているところもできるだけ客観的に表現しようという三谷さんの意図もあったとは思うが。
何より戸田さんの芝居が、ちゃんとそこらへんを表現しきっていて、いい人やら悪い人では語りきれない、そこら辺がないまぜとなった人間ならではの魅力を体現していたからだと思う。
一人芝居もあそこまでくれば、技術や技巧があるのは当たり前。そのうえでそこに戸田さんが居ればいい、という域にまで達しているから、安心して見ることができるのだ。
人の一生を演じる。それは役者にとっては最高の仕事であり、経験である。
葬式に出たあとだけに、生きるとことがより考えさせられた時間であった。
まあ、最近かなりいろいろ億劫で、原因はわかっているのだが、それについてはまた、あらためて書くとして。
二日間でお葬式と結婚式に出席し、その間に芝居を観劇した。
葬式も結婚式も、どこかしら演劇的な要素があるものだ。
つまり短い間に立て続けに演劇的なものを体験して、いろいろと考えるところもあった。というわけだ。
直前になって、行くのが億劫になるのは、やっぱり葬式だ。
知り合いの死をできれば実感したくないし、知り合いじゃなくても残された家族が泣いてたりするのを見るのはこちらも気が滅入る。
ただ、なんとか気合いを入れて出席してみれば、いつもやはり行ってよかったと思えるのも葬式だ。
おごそかな空気の中で、人の一生、人生を感じさせられる。
人の生きて来た命の尊厳というものを考えると同時に、人間終わってしまえばおしまい、過去のもの、だから現世の執着が馬鹿馬鹿しいといった、さっぱりした悟りのようなものも感じる。
なによりその人との、最後のお別れというケジメがつく。
別れとはきっぱりしていることが大事なのだ。と思った。
午前中に葬式から帰り、喪服を着替えて、三軒茶屋に。
戸田恵子姉さんの「なにわバタフライ」を観るためだ。
一人芝居は私もやったことはあるが、確かにしんどい。体力だけでなく精神的にも。
それでなくてもくそ真面目でガッツリ入れ込むタイプの姉さんのことだ。
毎日がもうかなりのハードワークであるらしい。
結果はもちろん素晴らしかった。三谷さんの脚本もいいが、演出がシンプルで潔い。
それでも楽屋の姉さんの顔は全く晴々していない。
まあ、気持ちはわかるが。
ご存知の方もいるだろうが、「なにわバタフライ」 はミヤコ蝶々さんの半生を描いた一人芝居だ。
原作は「女ひとり」、本人が書いた自叙伝である。
ドラマにもなったし、本人による芝居にもなった。私も見て知っている。
そのままでホントにうまく芝居になるような波瀾万丈の人生である。
元が面白いのだから三谷さんも有利である。
しかしこの芝居がとくに優れているのは、ミヤコ蝶々を百パーセントのいい人に描いていないところだ。
本人が自伝で美化しているところもできるだけ客観的に表現しようという三谷さんの意図もあったとは思うが。
何より戸田さんの芝居が、ちゃんとそこらへんを表現しきっていて、いい人やら悪い人では語りきれない、そこら辺がないまぜとなった人間ならではの魅力を体現していたからだと思う。
一人芝居もあそこまでくれば、技術や技巧があるのは当たり前。そのうえでそこに戸田さんが居ればいい、という域にまで達しているから、安心して見ることができるのだ。
人の一生を演じる。それは役者にとっては最高の仕事であり、経験である。
葬式に出たあとだけに、生きるとことがより考えさせられた時間であった。