いよいよ自分の状態が怪しくなってきたので、

人生の歯車が狂ってしまった経緯と、思う事を今一度整理して書き留めて行こうと思います。


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①メンタル壊した(休職した)経緯

きっかけはこのブログの初頭に書いた通り、職場の人間関係の拗れからです。

 


このときは割とあっさりと書いていたのですが、
もっと書くと去年の4月に部内のプロジェクト主担当者の変更があり、
前任者から2ヶ月くらいかけて順次引き継ぎを受けて立ち上がる、との立て付けで自分が主担当になるという事で参画しました。

ところが、蓋を開けてみると引き継ぎ資料の類いが一切存在しない…。
最初に話を聞いた時以上の情報が明文化された資料がどこにも無いのです。

前任者曰く「自分(前任者)も引き継ぎが無い状態でゼロから立ち上がったのだから、自分(俺)で何とかして欲しい」と言い放たれました。
なんだそれ…と唖然とした記憶が今でも鮮明に残っています。
しかも前任者は「自分はパワハラ紛いの厳しい物言いをするなら覚悟しろ」と…。

ちなみにこの前任者、実は自分の3つ年下なんですけどね。
何だこの物言いは?と何とも言えない違和感を当時感じました。

しかも、参画したプロジェクトは訳の分からない細切れの案件が同時並行で進んでいく上に、
いくつものステークホルダー(利害関係者)や商流の上下が入り組んでグチャグチャな状況。
自分もA4のメモ書き渡されてあとはよろしく!というような不毛なプロジェクトとか幾つか参画してきましたが、特にここは酷かった。

何もかもがゼロの状態なのでとにかく現状把握に努めましたが、同時並行の案件の状況も把握する必要があり、ここに手こずる状況でした。

4月までは分かる人に聞いて回りましたが、要領を得ない回答ばかりでじっくり時間を取り情報収集する暇も無く、
そこで疲弊しきってしまった感じです。

毎朝、プロジェクトの関係者間で30分程度の朝会を実施するのですが、
そこで共有される資料はあるものの、これも主語がなかったり明らかに関係者間しか読み取れない情報ばかり…。

思えばこの時、休職が決まったときに親身に接してくれた同時の部長にこの異常とも言える事態に声を上げるべきだった…。
ただ、部長もその時はプロジェクトの子細までは把握してなかったと言ってたので、
上げたところで、当事者でどうにかしなさいと言われていたかもしれませんが…。

そうこうして、あっという間に5月の連休明けに。
前任者から呼ばれ、1対1の打ち合わせをしたのですが、
「プロジェクトの理解が遅すぎる。このままでは任せられない」と。

そりゃこんなカオスな状況では立ち上がらないわ!と言いたかったですけどね。

その日からは前任者との関係は最悪そのものでした。
5月の連休明けからはそのプロジェクトの朝会の音頭を取る事になったのですが、
この状態ではロクに音頭を取る事もできず…。

どうしたら良いのか分からず、この辺りから不眠の症状や他人の言っている事が頭に入らなくなりました。

最初は脳障害を疑い(近親者にくも膜下出血をやった人がいるので…)脳神経内科を受診して検査してもらいましたが、異常は無し。
その後内科に行ったのですがここも異常は無く、医者からは、抑うつの前兆かそれに近しい症状があるので心療内科に行きなさいと指示されました。

そして6月に突入。
当初のメド感のうちに主担当者交替と言える状態に至らず、自分がさらに厳しい立場に追い込まれます。

前任者から人格否定のような言動は無かったのですが、会社の座席が隣だった事もあり
「あまりにも周囲の人間に質問しなさすぎる」
「質問の内容が的を得ていない」
「プライドを棄てなさい」
「あなたは分からないと言うと死んじゃう病気なのですか?」
という言葉を投げつけられました。 

ある意味ド正論なのですが、所謂分からない事が分からないという状態なのでなにも反論することもできず。
これでさらに追い詰められる状況に。
自分で分からない部分を何とかしようといろんな(中途半端に作られた)資料を見て空回りしてましたが、
文字を見るのも辛くなっていき…。

そして忘れもしない2023年6月2日の夜。
いつものように残業してよく分からない資料を読んでいましたが、
ついに資料に書いてある内容について、何を目的に資料にしたためてあるのか?レベルでも全く理解できなくなり…。

19時半くらいだったかな。頭の中で何かが切れる感覚がして何もかもが嫌になり、
隣席の前任者がタバコ吸いに離席した直後に会社を逃げるように退出しました。

仕事の事で泣いたのはあの時が2回目で、涙を流しながら会社を出たのですが、
会社の外は梅雨時にしては酷い土砂降りだったのを良く覚えてます。
その中をずぶ濡れになりながら会社最寄りのバス停へ。

帰りのバスの中で、たまたま次の日が通院日だったのですが、心療内科でもう限界である旨を伝えて場合によっては休職もやむなしと覚悟を決めました。

そして翌日心療内科へ。
それでも休職は高い壁があるイメージがあり精々「心と身体が楽になる薬だしときますよ」くらいで帰されるかと思ったのですが、
主治医に「今のままでは悪循環にはまるだけなので、休職しましょう。」と休職の診断書を書いていただきました。

そして週明け、上司に直談判して手渡してそのまま2ヶ月近い休業に入った訳です。 


休職届出した翌日か翌々日に、当時の部長が自分の最寄駅まで面談に来てくれて、

こちらの言い分も聞いてくれたので、このプロジェクトに関しては

「もうやりたい人だけで仲良くやってくれ。この野郎!と言いたいです」と部長に伝えまして、自分にしては珍しく乱暴な物言いをしたのを覚えてます。

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結局この時「適応障害」という診断がついたのですが、
今冷静になって考えると、この病気になる要素は満載だったと思います。
もちろん自分も自分で何とかしようと躍起になっていた、周りに声を上げなかったなど反省すべき点があったと自認してます。

それでも、ここである意味ここで今の会社での立場、キャリアといったものに言わば足払いを掛けられてしまった事が現在に至るケチのつけ始めだったとしか思えません。