学校での学びは、学びであって、学びでない。


それは、

「ねらい」ありき (大人の学んでほしい成果・結論ありき)

だから。


もちろん全部とは言わない。

でも、あまりにも自由度が少ない。


結論に到達しない学びもあってもいいし、
もっと即興を大事にしてもいいし、
深く深く追求する学び方をしてもいいし、
予想と全然違う方向へ発展していく学びがあってもいい

…はずじゃないだろうか。


日本の学校では、それは起こらない。

というか、教員の側からすると、それは「起こってもらうと困る」のが本音だと思う。


日本の公立の学校の教師は、学習指導要領に沿って、教科書通りに授業を教える。
それをしないとお給料がもらえない。
教える範囲の事は全部やり切らなきゃいけない。
学びが浅かろうが、ついて来られない子がいようが、とりあえずはやらないといけない。



「大人のコントロールしやすい子ども」を作るシステム、

「大人の教えたい事」を学んでもらうシステム、

その中で日本の子どもは育っていく。


子どもの好奇心、疑問、それをもっと大事にするやり方はあるはず。

だけど、教員にはそれを実行するだけの権限や、時間・手間をかけるだけのリソースが圧倒的に足りない。

だから、子ども達がどんどん学校から去っていく。

不登校は、私に言わせれば、とてつもなく「正常」だし、「ちゃんとした感性の持ち主である証」だ。

しょうがないじゃないか、満たされないのだから。

どう考えても、子どもの立場に立ってない学校が悪いでしょ、と思う。


日本の教員は、そこの自覚は薄い…でしょう。

そこに疑問なんて持ってたら、教員なんてつらくてやってられませんからね(笑)

そうして、一度教師になったら最後、どんどん麻痺していく。


私は大学時代、幼稚園・小学校・盲学校に教育実習に行っています。

その中で、一番ゾッとしたのは、小学校の全校集会の時のこと。


1年~6年まで、少しも列が乱れてはダメで、教師が手をあげてずっと指示をしていた。

起立→前ならえ→体育座り


何度も
何度も
何度も
何度も
繰り返す。


「これは、本当に必要な指導なのか?」

という疑問と、

「絶対おかしい」

という感覚。

忘れられない。


一体、この集会は、何のためにやるのか?

そこまでの大事な話なのか?
(だいたい校長のつまらん話)

ここまで列をまっすぐにしなければいけない理由は何なのか?

この「並ばせる」という行為は教師の、大人の、管理するための方法であったり、単なる自己満足ではないのか?

まっすぐにする事に執拗にこだわって、子どもの「人の話を聴く意欲」をどんどん削いでいるように思われるが…?

子どもが何の抵抗もせずにただ従っているこの空間…

自分で考えようとする子どもを育てよう…としているようには到底見え無かった。


そして、これらのことに、ここにいるヒト達みんな、誰一人として気づいてない、恐らく。


な、何なの?ここは?


そう感じて、鳥肌が立って、恐怖を覚えた。
(いや、実際、そんなゾッとする思いに至っていたのは、私だけだったと思う)


先生の多くは、自覚なく、日々やっている行為だと思う。

ほんとに息を吸って吐くように無意識に、「普通」「常識」と思ってやっているはずだ。


そんな事でイチイチ疑問を抱えるようなナイーブさを持っていたら先生なんてやってられないのだ。

だいたい高尚な理想なんてあったって、1人1人の子どもとじっくり向き合う時間なんてナイのだ。


指導案を書いたり、
教材研究したり、
準備したり、


私も教育大に通った者の端くれ。

指導案も何度も書いた事もあるし、授業も下手ながらやった事がある。

でも、いろんな場面で、疑問や、強烈な違和感が残った。


教育実習が終わると、いつも鬱状態になった。

私にとっては相当精神的な負担がかかった期間だった。

実習日誌も一字一句直される。
文字も超~綺麗に書かないと赤で訂正が入る。
(そこに時間かけて、実習生を何日も徹夜させてる場合か!?と今なら思える)


やっぱり「今の学校はおかしい」

この事を確信するに至ったのも事実で、この眼で見て感じてきた事は良かったと思う。



だって「ねらい」、「結論」を、さらに言えば「何を使って学ぶか」を、最初から教師が決めているから。

そして、そのねらい通りにコトが運べば「良い授業」。


興味も、感じる事も、子ども40人いたら40通りなはず。



そこまでの道筋を組み立てる作業なわけ。

最初から、「教師がこう言ったら、児童からこう言う答えが返ってくるだろう予測」をして、授業を組み立てねばならないの。


それは、私が起こしたい学びではなかった。


そして、私が子どもであったなら、
「だから退屈なんだよ!」
と言ったであろう。。


一番の教育って、「教えない」ってことだと思ってる。


何でもかんでも、大人が教えたがり過ぎてやしないか、と。

子どもが自分で興味を追求する。

学ぶということを突き動かすのは、1人1人の心の中にある

わかった瞬間
新しいものに触れた瞬間

なんかの、その快感!

ワクワク!

楽しさ!


そういうものが学びの先にあるから子どもは学ぶのであって、


良い進学先や良い就職先のために学ぶ事、っていうのは、本来学びの本質ではない。




「学校に行かないという選択ができたなんて、うらやましい」

と言われること、今になって結構あって。
同世代の友達とかから。


昔から、行きたくないのに我慢して行ってたんだよね、多くの人が。

あるチャンスが訪れて、私は突然川に通い始めた。
それは本当に「たまたま」、と言ってよい。




「上の子が不登校になったら、お兄ちゃんばっかりズルイ!と、下の子も不登校になりました」とか、兄弟不登校話はすごくよくある。

いかに
「本当は行きたくないところ」
「我慢して行くところ」

であるか…。


子どもに学校に来てもらいたかったら、
来てもらうための努力をしろよー!

本当にあるべきものが、今の学校にはナイことが、あまりにも多すぎるよね?


と私は思ってる。

ていうか、怒っているのだ。



2016年2月8日 記