『頑張ってるのに見返りが無いような気がするとき①』の続きです。
この状況を客観的に見てて思うのですが、
誰を信頼するか、誰を好きになるのかって、
「頑張ってる・頑張ってない」で決めてるわけじゃないんですよね。
頑張って告げ口する子どもって、正直面倒くさい。
だって、いちいち相手の望む「見返り」を要求されるから。
これは見返りふくろう。
「頑張っている自分を認めて欲しい」という見返りを要求されているのに、
だんだん面倒くさくなって、告げ口する子と距離を置いたりするようになる。
たまに罪悪感から告げ口に応じて、サボっている子を注意したりすると
ますます告げ口が激しくなり、ますますめんどくさくなる。
すると、頑張って告げ口もする子にとっては「頑張ってるのに、認められない」状況となる。
こういうことって、子どもたちに限らず
私や大人もやってるなぁ、とつくづく思ったのです。
「嫌なことも頑張ってるんだから、認めて」「サボっているあいつを罰してくれ」という、
面倒くさい大人をやってしまってるなぁ、と
反省しきりなのです。
「見返りを求めない」っていうのが、めんどくさくなくて良いなと思います。
ただ、一度頑張ってやってしまった行為に対して「見返りを求めるな」というのは
人として、無理な話です。
とするなら、はじめっから見返りを考えないで、やりたくてすることだけを
すればいい、ってことになります。
自分にとって当たり前すぎて「これで見返りが貰えるわけがない」と思ってすることが
実は他人にとってはとても出来ないような、時にはとてもありがたいことなのだ、というのが
「強み」なのだと思います。
だから、「強みを使う」「強みで仕事にする」というのは
・自分は、見返りを期待していないから、もし見返りがあったらラッキー。
・周りにとっては、見返りを要求されていないのでめんどくさくない。
ということになるのだと思います。
「見返りがなくても気にしないような、自分がしたいことをする」のが
自分にとっても周りにとってもラクなわけですが、
このときにやっぱり大事なのが、環境を選ぶこと。
「強み」でめっちゃ仕事が出来る人に対して、それに甘えるような人がいて
「強み」でしてくれることを受け取り放題で何も対価を返さなかったら、
「強み」の人は、生きていけなくなります。
さもなければ「自分はあの人の支えになって、役に立っているから」というのを報酬とする、
依存関係となります。
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