前の記事で


「この世には戦いがあるのが当たり前で


負けないようにしないと生きていけない、と思ってきたが


実は


はじめっから、戦いはないらしい」ということに気が付いた、と書いたが


そのきっかけは


私にとっては、離婚だったと思います。




離婚してびっくりしたことは、


結婚している間は


「頑張って『負けないように』常に努力しないと


ご飯を食べることもできない


(具体的には、主人を『不戦勝』させて常に機嫌を取らないと


生活の糧が得られない)」毎日だったのに、


離婚すると、母子家庭というだけで


手当がいただけること。


もちろん、それに加えて働いて収入を得て


生活をしているのですが、


結婚している間も仕事はしていたので


自分の仕事収入がある、という点は同じ。


違うのは、


結婚生活中は「歯をくいしばって『不戦敗』に耐えていた」のが


離婚後は、きれいさっぱりなくなったこと。


生活レベルは、そんなに変わりません。


これって、なんだったの?と思う。




他にも、


地域社会になじむために頑張っていたお付き合いの中で


ママ友の陰湿ないじめに遭っていて


でも『不戦敗』で耐えていたのに、


離婚して引っ越した先では、そんな苦しい思いをしないでも


あっさり付き合っていけていること、とか。


あんなに不戦敗に耐えて、


これも生きるためだ!と頑張っていたのって何だったの?と思います。





多分、


以前は、結婚してその土地で暮らしていくしか世界がない、という前提の中で


はじめっから私の意識に「戦い」があったから


そんな生活になったのだと思うのです。


同じようにその土地で結婚生活を送っている人がみんな


当時の私のように勝ち負けばかりの関係の中にいるわけではないし。


私の意識の世界の中だけに「戦い」があったから


私の世界は、戦いに満ちていたのだと思う。




それが、離婚してその世界を離れたことで


「あれ?戦わなくても大丈夫な部分がある」と気が付いた。


はじめは、その「戦わなくてもいい部分」はごく一部で


新しい土地特有のものなのかな、と思った。


そのうち、


「戦わなくてもいい部分、というのはこの世にあったりなかったりするものではなくて、


私の意識の中に


『戦い』があるかないか、ではないか?」と気が付いた。




戦いがないことと、不戦敗って似ているので


戦いがない意識に慣れないと、つい不戦敗に走ったりしていて


あれ、なんか違うな?と立ち止まって行きつ戻りつしたりしてます。


これからもきっと、そうやって行きつ戻りつしながら


「戦いは自分の意識の中で勝手に作ったもので、


自分の意識に戦いがなければ、現実世界にも戦いはない」という世界観に


少しずつ慣れていくのだろうと思います。


そして


「戦いがある世界は、今までの自分にとってなじみがあって分かりやすかったけど


苦しかった。


戦いのない世界観はなじみがなくって不慣れだけど


新鮮だし、心がラクだなぁ」と思いながら


日々生きていくのだと思います。