こちらのブログの記事 を読んで、


「負けたくない」ということについて


再認識しました。



私も、負けず嫌いで


営業のような「勝ち負け」に興味は持ってみるものの


結局、やる気がなくなって離れていく。


勝ち負けに心惹かれながら、勝ち負けを嫌悪しているような気持ち。




これってなんだろう、と長年思っていましたが


前記の記事を読んで


「負けず嫌い、というよりは


負けてはいけない、と思っている。


負けたら生きられない、人生終わりと思い込んでいるから


『勝てるところ』を探し回っていたのだ」


と気が付きました。




でも、勝ち負けってなんだろう?


人よりポイントが高かったら勝ち?


その高い低いの基準って何?


営業だったら数字が出るので、分かりやすいのか?


それとも、


自分の意見を通せたら勝ちなのか?


自分の思い通りに出来たら勝ちなのか?


人にうらやましがられたら勝ちなのか?



勝ち負けの基準って、分からない。


とりあえず「優越感を持てたら勝ち」みたいな感じになってた。




でも。


勝っていたら上手くいく、というわけでもない、と気が付いた。


いつも自分の意見を押し通したり


自分をほめてほめて、というのと、


人と楽しく付き合うのは、違うこと。




とにかく、怖いのは「負けること」だから


勝たないで、人と上手く付き合いつつ


負けない、という方法をいつの間にか身に着けていた。



それは


「不戦敗」


という方法。



そこに戦いがある。


でも、勝ちは初めから相手に譲る。


相手に勝ちを持たせて、上手く付き合って


でも自分は負けたわけではないから大丈夫、という


「不戦敗」。





そうやって生きていると、


周りの人間関係が


「不戦勝を欲しがる人」でいっぱいになる。


不戦勝を欲しがる人、とは


はじめっから対等でないことを希望する人。


はじめっから自分のほうが「上」だから、お前はいつでも「不戦敗」しろ、と望む人。


そういう人とは、対等な話し合いや、譲り合いや、思いやりの関係を持つことができない。


「不戦勝」側は自分がいつまでも不戦勝できる立場を保つために威張り続けるし、


「不戦敗」側は我慢できるところまで我慢し続けて「いつか勝てる日」の逆転を目論むが


そんな日は来ないので、そのうち嫌になって逃げだす。




「不戦勝」と「不戦敗」の関係って、


「すべてをありのまま受け入れてくれる無垢の愛」に似ているから


依存性があるのだと思う。


「無垢の愛」との決定的な違いは


受け入れる側、受け入れてもらう側が入れ替わらないこと。


それって「勝ち負け」があるから。


そこに戦いがあって、


初めから勝ち負けが決まってますよ、という話。



つまり、


はじめっから「戦い」がそこにある。


戦っているのに、


いい関係もなにもない。






「負けたくない」と思って


必死で負けない方法をとるのは、


「人の世は、すべて戦いである」という


前提があるから。



ということは、


はじめっから


戦いなんてない、


ということだったら?




勝とうが負けようが


生きていけるんだよ本当は、


ということだったら?





はじめっから戦いなんてない、ということになったら


今まで負けないようにしていた人は


じゃあ何のために生きていけばいいの?と


迷うことになる。


今まで「負けないように」必死に生きていたのはなんだったの?


今までの自分の「負けないため」の血がにじむような努力はムダだったのか?


あの苦闘の日々がムダだったなんて、自分が可哀そうすぎる。


それくらいなら、これからも「いつか勝つ日」を目指して


負けないように頑張っているほうがいい!


・・・と思うかも。





価値観を変えるとは、


今までの自分が必死で積み上げてきた「実績」を


捨てることだ。


「負けない」ためにコツコツ積み上げてきた評価やノウハウは


これからは何の役にも立たないから、と


ポイと捨て去って、


新しい価値観を基準に生きる。


新しい価値観って何なのか?


そこから始めて


その新しい価値観での「実績」を


コツコツ積み重ねていく道のりが


今さら、始まる。





こんな時、


「自分は、世界の迷子になったようだ」と


人は言うんだろうな。