杉野は何処、杉野は居ずや
 

南山の陣地は嶮峻なる高地線に半永久築城を施し、大小砲約七十門機関砲八門を具え、連絡囲繞せる数層の砲塁線には銃眼を穿ちたる掩蔽部を作り、その前方には多数の地雷及び鉄条網を設け、かつその間隔を補うに多数の機関砲を以てせり、我砲兵は全力をあげてこれが破壊に努力し、またしばしば陣地を交換して敵に近接し以て歩兵の前進に勢力を与えたりしも、敵兵の抵抗はすこぶる頑強なりしを以て午後5時に至る。この時我歩兵のため未だ突撃の進路を開くに至らず。(隅谷、284~285ページ)

 この史料は、日露戦争のある戦いについて日本軍側から記録したものだ。この史料からは、ロシア軍が防御陣地を築き、多数の機関砲(銃)を配置していたことがわかる。朝鮮半島と満州の権益をめぐって戦われた日露戦争は、塹壕戦や総力戦の様相を呈していて第0次世界大戦ともよばれる。植民地戦争と同様に、機関銃は圧倒的な火力を発揮している。
 続く旅順攻囲戦では、二〇三高地をめぐって日露両軍が激突する。この戦いで日本軍の投入兵力は延べ13万、死傷者は約6万人に達した。この戦いでもロシア軍の機関銃は威力を発揮した。


 日露戦争は、機関銃に対する軍の考え方を根本的に揺るがすような事件であった。塹壕や鉄条網、地雷で構成される防衛陣地と機関銃の組み合わせの威力は絶大であり、機関銃は単発式の小銃に比して圧倒的な火力を誇った
 

 ヨーロッパ諸国は日露戦争に観戦武官を派遣しており、このような状況を目の当たりにしたしていた。しかし機関銃に対する反応は、やはり時代錯誤な伝統に根ざすものであった。士官たちの戦争に対する観念はいまだに昔ながらの白兵戦と個人の武勇という信念が中心となっていた。ヨーロッパで行われる「本物」の戦争ではこうはならないと、彼らは考えていた。