1.初期の大砲(14世紀から15世紀初頭)

 東アジアで火薬が発明されてヨーロッパに火薬が伝わると、大砲は1330年代にはヨーロッパの戦場に登場する。しかしその役割は大音響によって敵兵を畏怖させる程度のもので、心理的な威圧を与えて敵がパニック状態に陥れば儲けものくらいのものであったようだ。実用的な面で言えば、最初期の大砲はあまり役に立たなかった。

 

(1)野戦

 1380年代に大砲は実戦に投入されうる兵器になっていた。このころには大砲の火力は集中させてはじめて威力を発揮することが知られていた。しかし大砲の集中運用は資金面や運用面で大きな負担となった。車両に小型の大砲を何門も載せたリボードカン(オルガン砲、図1)はこの葛藤の中から生まれた。しかしこのリボードカンは強力であれば重くなり運用がしづらく、軽量であれば運用はしやすいものの威力を損なった。そのためこの兵器はひろく普及することはなかった。


 

図1 リボードカン(オルガン砲)

 1380年代には、大砲がもっとも有効に働くのは固定陣地を守るとき、そしてかなりの量の砲撃ができるときであることがいくつかの戦闘の教訓として知られるようになる。相手に打撃を与えるというよりは、大きな音と射出した砲丸によって敵を混乱させる効果が期待されていた。火器が野戦に使われた初期のころにあっては、パニックを生み出せることが、状況に影響を及ぼすうえで砲が有する事実上唯一の手段だった。

(2)攻城戦

 攻城戦における大砲の使用は野戦におけるそれとは状況が異なっていた。しかし攻城砲においても大砲は集中運用が鍵であった。大砲が効果的に使われるようになるのは、大砲の口径が大きくなって大砲を十分な数をそろえられるようになってからのことであった。14世紀末に硝石が値下がりして火薬の値段が下落するまで、大砲の集中運用は金銭面なコストがかかりすぎた。また運用面でのコストも問題であり、大砲を戦場に持ち込むことさえも容易ではなかった。

 しかし火薬のコストも下落した15世紀初めには、大きな石を打ち出す大砲は軍におけるある種の流行になっていた。例えばメガホン型が特徴的な「シュタイル砲」やエディンバラ城で展示されている「モンス・メグ(図2)」などがこの時代に登場する。


 
図2「モンス・メグ」


 この時期の大砲は技術的な問題から、大きくて質量のある、つまりは破壊力のある石の弾丸を発射するためには火薬をたくさん使わなくてはならなかった。このことは、大砲の大型化という結果を生んだ。火薬をいれる薬室は砲身の壁より厚くなくてはならず、ラッパ型の形状には安全が配慮されてのことであった。城壁やその内側にある市街の建物のような動かない標的を攻撃して破壊するには、とにかく大きな弾丸をできるだけ高く打ち上げて命中させる必要があった。

 14世紀から15世紀初頭において、飛び道具としての火砲は火薬の不安定さや砲そのものの重量ゆえに扱いにくいものであった。また大砲や火薬は高価な代物であった。実用的な意味からいえば弩や弓、投石器やトレビュシェットに劣るものであった。しかしこのような火砲をめぐる状況は、15世紀に粒状火薬が開発されると変化していくことになる。

 

【参考文献】
著:バート・S・ホール、訳:市場秦男『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、平凡社、1999年。
Wikipedia「大砲」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大砲(2020年2月3日参照)