1.目次

はじめに ― 一番いい時代はいつか ―

1.私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか

2.歴史を造るのは誰か

3.世界史から私たちの歴史へ

4.モノの位相

5.イミの位相

6.ヒトの位相

おわりに ― 史的な思考法マニュアル ―

 

2.本書について

 本書は、教科書会社としても知られている清水書院から「歴史総合パートナーズ」シリーズの1冊目として出版された。「私たちを取り巻くさまざまな物事を、日本史・世界史の枠組みにとらわれない視点から広く、深く考え」ることができるとされている(清水書院HPより)。全15冊刊行の予定で、現在は9冊目の『Doing History:歴史で私たちは何ができるか?』まで出版されている。

 本書の著者である上田信は立教大学文学部の教授で、「中国社会史ならびにアジア社会論を研究テーマとする。前者では主に中国の明清時代を対象に、都市下層民の生活、親族関係と地域社会との関係、森林と社会との関係などを多面的に分析してきた。後者では海域アジア史・東ユーラシア史という視座から研究を進めている(立教大学HPより)」。東洋史をフィールドに、社会史をはじめエコロジカル・ヒストリーのような巨視的な歴史まで幅広くカバーしている研究者である。

 

 本書の内容についてだが、本書はそのサブタイトルにも記されている通り「史的な思考法」を提示することを目的としている。「発展段階論」や「近代化論」といった単線的な進歩史観が受け入れられなくなって久しい現在において、ヒトという種が生き残るためには私たち一人ひとりが主体的に歴史を創る必要がある。そのための方法として、筆者は「史的な思考法」を提示する。

 ヒトという種は1945年8月6日の広島への原爆投下をもって、「自殺」する力を身に着けた青年期をむかえた。またヒトという種は、人口爆発によってとてつもなく大きな体格に育っている。このような種としてのヒトの現状において、先行きの見通せない時代を、よりよい1歩を踏み出すために歴史から学ぶ必要がある。しかしこの作業を歴史家の特権としてはならない。歴史家が注目してこなかった「クレオパトラの鼻」のような事柄も取り上げて検証することで、歴史はより豊かになる。そして「ここ」の私と「そこ」のあなたとをつなげて、種としてのヒトを存続させていくためには「史的な思考法」を用いて一人ひとりが歴史を創り上げていくことが不可欠だ、と筆者は主張する。

 3.感想など

抽象的な概念がたくさん登場するのが本書の特徴の1つである。歴史哲学の入門として最適かもしれない。しかし抽象的な概念の1つひとつに具体的な例示があり、じっくりと呼んでいけば主張が単純であることに気づけるだろう。「これからの時代において、歴史は一人ひとりが創り上げるものであり、そのためのマニュアルである「史的な思考法」を提示する」ことが本書の目的である。

「史的な思考法」は歴史を学習するための方法ではなく、自己と他者の架け橋をつくる際に必要な方法であると筆者は述べる。その方法はシンプルで、まず他者に関わる出来事にタイトルをつける。そして、誰が、なにを、いつ、どこで、なぜ、どうしての5W1Hを考える。特になぜ・どのようにと問うときには、モノ・イミ・ヒトの3つの位相のそれぞれで思索を広げていくことが必要であると述べる。そして最終的には、自己と他者を結びつける唯一の方法は対話であるとする。

 

 本書の本筋とは外れるが、気になった点について最後に述べる。ヒトはなぜ歴史を学ぶのか。『歴史を歴史家から取り戻せ!』の著者は「過去から学ぶため」であると述べている。

しかし、歴史を学ぶ意義とは本当にそうであろうか。例えば、自国第一主義が幅を利かせている現在の状況と第二次世界大戦前夜とが同じだと本当に言えるだろうか。古代ギリシアの市民という概念と現在の市民という概念が異なるように、時代と場所が異なればそう簡単に比較することはできないのではないだろうか。

 このように主張すると「研究の蛸壺化」という歴史学の行き止まりにたどり着いてしまう。 また過去から学ぶことを否定してしまうと、「役に立たない史学科」という世間一般のレッテルを助長する結果となってしまう。

上田氏にとっての歴史を学ぶ意義は、「過去から学ぶため」なのかもしれない。「歴史を学ぶ意味はその人の中にのみある」という究極の相対主義に行きついてしまうが、そのことを考えることが歴史家としての責務であり、考え続けることこそが歴史家を歴史家たらしめるものなのかもしれない。

 

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