1.序文

2.古代:帝政ローマにおける軍事戦略と皇帝像の変化

3.中世:未定

4.近世:戦列歩兵の誕生と社会の変化

5.近代:機関銃の衝撃

6.現代:未定

7.おわりに

 

1.はじめに

 戦列歩兵Line Infantryとは、1719世紀のヨーロッパの野戦軍で主流となった歩兵の運用形態のひとつである。ローランド・エメリッヒ監督作品の「パトリオット」(2000年)はアメリカ独立戦争(1775年~1783年)を舞台にした映画だが、そのなかでイギリス本国の戦列歩兵と植民地軍がキャムデンの戦いで対峙するシーンがある。イギリス軍は大砲の支援を受けながら行進曲The British Grenadiersに合わせて行進し、号令で一斉にマスケット銃を構え、射撃する。行進している間は植民地軍の射撃にさらされるわけで、当たり前のように前列の兵士から倒れていく。イギリス軍はそれでもひるまずに射撃を続け、植民地軍が崩れたところで騎兵が突撃を敢行し、植民地軍は敗走する。

 このような戦術が一般化したのはなぜだろうか。戦争は不条理で残酷なものだ。しかしそのような現在の感覚をもって考えてみても、非人道的で残虐に思える戦列歩兵を用いた横隊戦術はなぜ成立したのだろうか。

 

 

 そのことを考えるために、まずは西欧における「火器」に注目してみよう。世界史Bの教科書によると、「14~15世紀には火砲が発明されて戦術が変化すると、かつて一騎打ち戦の花形であった騎士はその地位を弱め、彼らはいっそう没落した」と騎士が没落した要因の1つとして火砲の発明をあげている。封建社会の支配者であった貴族は、戦場においては騎士として戦った。戦場の花形であった彼らは、幼少のころから軍馬を操る鍛錬を受け、自身の武芸を磨いた。アーサー王伝説などに代表される騎士道も花開いた。しかし火器が「発明」されて戦術が一変すると「貴族=騎士」としての彼らは没落することになる。

 

 近世ヨーロッパにおいて、火器がある時代の幕引きを誘引するモノであったことは明らかである。中世では戦場の花形であった騎士(重騎兵)による突撃戦術は、火器の登場を最後の契機としてしだいに衰退する。そして18世紀までに戦列歩兵による横隊戦術が出現する。戦列歩兵の登場はヨーロッパ各国の軍事力を膨張させるきっかけとなり、そしてこのことはヨーロッパ社会の変質を促す起爆剤にもなった。

 

 

2.火薬の誕生と西欧への伝播

 ルネサンス期の西欧の「三大発明」と言えば、「印刷術」「火薬」「コンパス(航海用磁針)」が思い出されるだろう。これらはフランシス・ベーコンが1620年の彼の著作『ノヴム・オルガヌム』で指摘しているが、よく知られているように、厳密には「発明」ではなく、東アジアの技術を改良したものに過ぎない。

 東アジアにおいて火薬がいつ発明されたものなのか、その時期は定かではない。宋王朝の時代に最古の火薬の処方に関する処方がみられる。しかしそれよりも以前に、道家が不老不死の霊薬や錬金術を探求する過程で、「木炭」と「硫黄」、「硝石」の混合物である火薬が誕生したとされている。中国の諸王朝は、ヨーロッパ人よりも早く、焼夷弾や火炎放射器、爆弾、ロケット、大砲、手銃として火薬を兵器として利用していた。

 火薬の技術がどのようにして西洋に伝わったのかもまた、定かではない。中国の王朝は火薬の技術を門外不出としたが、北方民族の侵攻によってその秘密は暴露されてしまう。それが決定的になったのが、「モンゴルによる平和」が成立した13世紀から14世紀のことであった。火薬を使った兵器が最初に伝えられたのはイスラーム世界で、アリストテレスの著作など多くの思想や技術と同様に、スペイン中部やシチリア島のようなイスラームとキリスト教が融合する地域を通って西欧に伝播した。

 前述したように、火薬の材料は「木炭」、「硫黄」、「硝石」である。その中でも特に重要なのが硝石であり、火薬におけるこの物質の含有量は爆発の大きさを左右した。しかし硝石はヨーロッパでは非常に手に入りにくい物質であり、かつ湿気を吸収しやすいという弱点もあった。そのため初期の火薬兵器は高価であり、その運用も難しかった。

 この問題をある程度解消したのが粒状火薬である。従来の火薬は粉末状であり、火薬が外気と触れ合う面積が大きく、そのぶん湿気を吸収した。しかし粒化火薬は、その名の通り粒状で、粉末火薬と比べて外気と火薬が触れ合う面積は小さく、湿気を吸収しにくかった。この粒化火薬の技術によって、火薬はいくらか使いやすいものとなった。また人工的に硝石を作る作硝丘によって、15世紀から16世紀にかけて火薬の値段が下落すると、火薬兵器は戦場でよく使用されるようになった。

 

 

3.長槍(パイク)と小銃(ショット)の時代

 初期のマスケット銃は攻城戦における防御側の武装として主に用いられた。包囲された都市の城壁の上から、防御側が攻撃側にむけて射撃することが一般的であった。マスケット銃を用いた野戦戦術は、この延長線上に考えられてきた。野戦におけるマスケット銃の役割は、時代と共に防御的なものから攻撃的なものへと移動していくことになる。

近世ヨーロッパでは中世までに比べて多くの兵士を一度に雇うことができるようになった。それと同時に従来の軍隊の主力であった騎兵に対抗するために歩兵が戦場に返り咲くことになる。彼らは長槍と小火器の組み合わせによって騎兵に対峙した。

火薬が登場する以前の対騎兵戦術として有効だったのが、古代ギリシアのファランクスのような槍衾を形成することであった。そして槍を使った戦術を活用した代表的な例が、スイス人の傭兵団である。国土の大半が山岳地帯でめだった産業がなかったスイスでは、「血の輸出」として傭兵を派遣することが重要な産業となっていた。彼らは緊密な密集隊形で堅固な槍衾をつくって戦った。その精強さの源は彼らの結束力であり、仲間意識や集団としてのまとまりが彼らの強さの源泉であった。

 

 16世紀の野戦においてマスケット銃の果たした役割は、この槍衾を支援することであった。スイスの傭兵団を参考に編成されたランツクネヒトは、その大部分は長槍で武装していたが、一部はマスケット銃を装備していた。密集隊形を組んだ長槍兵の側面にマスケット銃兵が配置され、散兵として活動した。彼らは騎兵の攻撃が迫るとパイク兵の縦列の間に退避して、防護を受けた。

 野戦における初期のマスケット銃の活用である長槍と小銃を用いた「パイク・アンド・ショット」は、イタリア戦争のころには歩兵が騎兵と対峙する時の一般的な戦術とされてきた。基本は槍兵による防御であり、マスケット銃はそれを援護し、支援するための役割しか担っておらず、マスケット銃はいわば防御のための補助武器であった。

 

 

 

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