バーチャルyoutuber登録者数も500を超え、ランキングに登録していると思われる人だけなら654名になるという。もはや追いかけきれるものではないし、見たい人を見るだけという状況に陥っている。いやはや、時間がいくらあっても足りるものではない。

 

コンテンツの肥大化が起こると、どうしてもそこでクリアランスに応じた差別化が行われる。私自身もこれに逆らうつもりはなく、やはり時間を掛けるに値するかどうかを気にしてしまう。そうすると、やはりモデルの良し悪し、動画編集の技量、人を盛り上げるトーク術、これぞと言うだけの一芸など、様々な要因から批判的にみている自分を見つけてしまう。単純に「動画投稿しました」だけでは見てくれない状況になったことを、私自身が証明している。

 

教授が皮肉に歌っていた替え歌「ノンフィクション」の一節をお借りしよう。

 

「僕はVtuber Vtuber ただ なりたいだけ」

 

ほんそれ。私がこの歌を嫌だなあと思った背景には、そういう状況になってほしくないなあという願望からだと思う。多分、箱推ししている人の中には「もっと盛り上がれ」と思っている人もいるだろうが、私はそういう傾向を好まない。ただ名乗っただけでVtuberという状況になれば、これから入ってくる新規層に対して「またバーチャルyoutuberか」と言われかねないからだ。

 

バーチャルyoutuberを好きになってくれることはありがたい。しかし、ただブームに乗っかりたいという思いで、にわか作りのアバターを使い、先輩諸氏のまねごとをするだけのVtuberなら私は見たいと思わない。厳しいことを言わざるを得ないが、芸人でもアイドルでも俳優でも、人が増えれば増えるほどに、努力を積まなければステージに立てないもの。バーチャルyoutuberも同じサイクルに入った。前座引っ込め、と言うひどい言葉があるが、それだけ客は過熱化し、見世物としてのバーチャルyoutuberに対して期待しているということ。

 

ねこますさんやアイちゃんは運よく当たったわけじゃない。当たるだけのものを持っていたから当たった。これを誤解してはいけない。アイちゃんであれば「人に見てもらうための話題」「トーク術」「動画の編集」など、基本的な部分を積み上げ積み上げ、それを毎日続けたことが結果につながった。ねこますさんは、そのチグハグな存在感が注目されがちだが、本質にVRコンテンツへの熱い情熱とそれを支える知識、自作するための技術力を持っているからカリスマになった。シロちゃんも、アカリちゃんも月ちゃんも同じだ。人に見られるということに対して恐怖し、その分だけ努力しているからこそ数十万の登録者を持つ四天王という枠に収まっている。

ブームに乗って運よく当たったなどという妄言は絶対に当たらない。

 

キズナアイは人間のyoutuberと対等に戦うために努力した。ねこますさんは自分のkawaiiを世に広めたいという情熱から行動を起こした。では、今デビューしている子たちはどうだろう。単にねこますさんがやれるなら俺も、などという軽い気持ちで見ていないか。先駆者が道を開いてくれたから、やり方や法則性は確立されてきたかもしれない。それを辿れば誰でもVtuberになれるのかもしれない。ウカ様あたりは「Do it!(やるんだ!)」と言って後押ししてくれているが、その「やる」のスケールを単に自分の物差しにしたままでは、無言の外圧で潰されることになる。

 

今の状況は先駆者と技術者に対して負ぶさっているだけだ。いずれそういう層を背負いきれなくなって、コンテンツ自体が破綻してしまう。そうならない為には、他の芸能ジャンル、youtuberと比較されても「これはすごいな!」と言われるレベルに到達することだ。キズナアイはそこに到達した。つまり、世間の標準基準はキズナアイ。Vtuberになるということは、最低でもそのぐらいの覚悟を持っている必要があるということだろう。

 

ねこますさんは、技術や資金の壁を取り外してくれた。あとは本人たちの努力次第、そして界隈での協力次第だ。足りないものを補いあうとか、あるもの同士を掛け合わせるとか、そうしてより良いものを作り出していけば、今よりもっとVtuber界隈は賑やかになる。技術屋さんにおんぶにだっこになるだけでは、きっと良くならない。それがボカロや歌い手界隈をダメにしてきた。いいものを作り出すには努力がいる。その当たり前を忘れてはいけないと思う。

ニコニコ動画という巨大なプラットフォームが産まれたのは2006年のことだ。当時、動画サービスと言えばyoutube一強であり、Twitterが流行するより前の時代だったため、youtubeの流行動画の共有はスカイプやmixiなど、個別グループ内で行われていた。あるいはソーシャルコミュニティの役割としてのMMOが全盛を誇っていて、ゲーム内で面白動画を共有するというような仮想生活が展開することも珍しくなかった。

 

それが2006年の末頃にニコニコ動画の登場で巨大なシンギュラリティを迎えることになる。動画サービスとコメント機能によって、「一緒にいるような錯覚を得られる」という臨場感のある動画サービスが展開されるようになった。これが爆発的に受けたのは、ソーシャルネットワークサービスがまだ黎明期であった為だと推察される。ニコニコ動画の根底には「2ちゃんねる」の掲示板交流文化があり、ユーザーの多くがそこから流れ込んでいたため、アスキーアートならぬコメントアート文化が成長し、一般視聴者層もなるべく面白いコメントをする技術に長けていくようになった。暗黙のお約束という感じだろう。

 

ニコ動の黎明期では多くのスターが排出された。最初期はyoutuberのような「無茶なことやってみる動画」が当たったりしたが、そこから次第に変化が起こり、替え歌を歌う「歌い手」や得意のダンスを使った「踊ってみた」、そして初音ミクを利用したボーカロイドPなどが登場するようになり、動画は見るものから「作るもの」へと変貌を遂げていく。

 

2010年、ニコ動は「ニコニコ生放送」を開始した。サラリーマンが日常のことをダラダラと喋るものだったり、女子中高生が歌ったり愚痴ったり、絵を描く作業風景を流してみたり、各々が自己PRをするのにはうってつけのラジオ放送局が誕生していた。特に動画配信者にとっては、このニコ生の効果はとてつもなく大きく、ファンと直接やり取りすることで地盤を固め、動画のランキングを上げていこうとするものが続出した。あの当時、ニコ生はほぼ義務に近いものであり、「創作物を見たい<その人を知りたい」というような傾向がどんどん強まった。下種な言い方になるが、要するにアイドルブームだった。

 

これらが現在のVtuberブームの下地部分だ。土台……違うな、肥やしか何かだろう。

 

既にニコニコは死んでいる。動画投稿者も、ニコ生主も、歌い手も、踊り手も、ボカロPも、時間の変化と視聴者の変化の中で衰え、腐り、死に絶えていった。なんてことはない、ニコニコ自体が腐敗し、静かに崩れ落ちていったのだから。もはやニコニコでは花は咲かない。いくら綺麗に芽吹いた所で、ユーザーがクソ過ぎてその芽を踏み荒らしてしまう。運営がどうこうという問題ではなく、プラットフォームとしての寿命が来てしまったのだ。

 

マナーの悪い客を放置すると、良客の大半が逃げ出してしまう。居心地の良さを求めて来店しているのに、不愉快な思いばかりが蔓延していたのではどうしようもない。特にニコニコは「コメントが残る」という仕様上、ネガティブな言葉がゴミとして散乱し続ける状態になった。ユーザー自身がNGワードを設定しようが、それを上回るペースでクソユーザーはコメを投稿し続ける。MMOでチートbotを放置し続けてゲームバランスが崩れるのと同じことだ。

 

自治能力を失ったニコニコは、ホモコンテンツに支配され、ホモの言葉が共通言語のようにうずたかく積みあがる状態になった。誰も望んでそんなクッソ汚いものを選んできたわけじゃない。逆らえば炎上する体質から、やむを得ずそこで生き延びる道を選んだ。空気を読む機能が悪い方向へ悪い方向へ突き進み、当初はホモの皮を被っただけの人たちも、やはり自分の見たい/見せたいコンテンツが全く伸びず、流行らず、ホモに媚びるだけの状態には辟易していたのだと思う。その結果、公式アニメ配信やボイロ実況のような当たり障りのないものが伸びる状態が出来上がった。

 

要するに「人間」が邪魔だったのだと思う。人間っぽさ、人間らしさ、生々しい感情、弱さや脆さ。こういう部分を悪用し、人を淘汰し、嗤う連中がのさばっているために、もはや見せる気力すら失っていったのだ。だから「人ではないもの」へ自分を投影するようになったのだろう。

 

それがバーチャル。3DアバターかLive2Dアバターかは問わない。現実の自分とは違うものとして視覚的にもきっちり切り分け、虚構のキャラクターを演じることで自分らしさを守る必要に駆られるようになったのだ。かつては多くを語らないことで護れていたが、今ではなりきりをしなければ人目を引くことさえできなくなった。ただの創作物に価値を生むのは難しく、プロの音楽業界・映像業界ですらそれで首を括る人が絶えない。

 

バーチャルyoutuberというコンテンツはそれらを肥料として咲いた花畑だ。まるでテーマパークのような虚構感溢れるキャラクター達と、一緒の時間を過ごすことが出来る夢の国。VRChatがそういうものの代表であれば、Vtuberはそれを外の世界へ発信するための窓口と言った感じ。それぞれのワールドがあり、チャンネルがあり、ユーザーは好きな所へ行くことが出来る。

 

まだ踏み荒らされていないというだけなのかもしれない。まだ汚されていないと言うだけなのかもしれない。だが、ここに咲いた花はかつて死んでいった配信者たちの魂が宿っており、そう簡単に枯れることのない力強さを私は感じる。かつて枯れてしまった悲しみを背負っていて、かつて踏み潰された過去を背負っていて、だからこそ不思議な強さがそこに宿っているような気がするのだ。

 

元生主、元歌い手、元実況者……そうした人たちがバーチャルyoutuberとして生まれ変わっているのなら、それは賑やかで楽しいことなんじゃないだろうか。例えそれが死後の楽園なのだとしても。悲痛な現実に押し潰された無念や苦悩が、そこで浄化されているのなら、私は望んで死者の楽園に身を捧げる。

インフィニットループの2回目の生放送があった。

期待の新生あねえるたんを投入したこと自体は衝撃だったが、何分、時期が遅すぎた。驚異的成長を遂げる有望な新人が毎分毎秒登場する界隈では、トークに長けたパーソナリティと、技術的に優れたライブスタジオを用意しても、思ったほどの注目を集めることはなかった。今後どうなってくるかはわからないが、致命的にILには「業界の情報」が足りていないことだけはわかった。これはみゅみゅ教授としゃちょーのVtuber嫌いが関係していると思う。

 

Vtuber界隈は既に企業Vtuberが覇権を争う段階を終えてしまった。どれだけ技術展開をしても、VRCの容易さ、自由さ、公益性に敵わない。VRLIVEもhololiveもVRLiveStudioも優秀なプラットフォームだし、法人展開しやすいものだが、エンドユーザーにとっては全く魅力的に映らないのである。結局、VRの本質を一番突いたのは「見る側→体験する側」へと変革を導き出したVRCだったということだろう。

 

恐らく、先発企業はこのユーザー層を「見ている側」だと想定していた。VRLIVEにせよ、hololiveにせよ、どちらも視聴者が自分のアバターで参加するコンテンツではなかった。そこでVRLiveStudioは一歩先取りをして「一緒にVRの中に入ろうぜ」という箱を作り出した。しかし、この予想を大きく上回るペースでVtuberは「自分らだけでやれる技術」に到達してしまった。そして遅れて登場してきたにじさんじ。もはやVRですらない。だが、Live2D+FaceRigという一歩遅れた技術でもVtuberになれ、安易に話題性を掻っ攫えるということが証明されてしまった。皮肉も皮肉である。

 

これはVtuberとは何かを問う話であり、VR技術をどう考えるかという話である。個人的にはLive2D+FaceRig方式の配信者はVtuberというよりも、アニメーション生主というカテゴリになるんじゃないかと思う。バーチャルでyoutuberという点はあっているのだが、本質はゆっくり実況と変わらない。だがこのユーザー層と言うのは根強くあり、3Dアバターのバーチャルyoutuberという見慣れない存在よりも、見慣れた存在の方に人は安心感を求めたのだと思う。

 

そして何より、3Dアバターでありながらやっていることが2Dと変わらない状況がこれに拍車をかけた。アイちゃん、シロちゃんがその筆頭なので、もうこれは必然だったのかもしれない。ゲーム実況や小ネタトークだけでは、どうしても3D感に対するメリットを感じられなかったのだと思う。

 

ただ、個人技術勢が登場してからはこの状況にも変化が起こりつつあり、もちひよさん、ウカ様、ねこますさんがモデリングの基礎部分をレクチャーしてくれることで、Live2Dの個人勢がこれに触発され、「自分も3Dアバター作ってみよう」という流れが出来た。2軍クラスは仲間内で一緒に遊ぶために3Dアバターを作ろうとしているので、トレンドが流れつつあることが確認できる。

 

また、VRCに行きたいというVtuber、あるいはVRCのプレイヤーがVtuberになりたいという現象も起こりつつある。加えて、もちひよさんがにじさんじのちひろちゃんに3Dアバターを作り出すなど、着々と3D化は進行しているようだ。もしかすると、Live2Dと3Dを使い分けることもあっていいのかもしれない。実際、のらきゃっとさんはゲーム実況とライブ配信できっちり使い分けており、ローコストモデルとしてのLive2Dを丸々否定する必要はないのだと思う。

 

3Dは高コストのハイエンド感が強く、ユーザーの視聴環境にも負担を強いる。そこをどう受け止めるかということが、業界が今後考えるべき問題になるのではなかろうか。安易に3D偏重に走ると、ずっと足元を掬われ続けるような気がする。