最近は「常にガイドと繋がる」という練習をしていますが、まだ何割かは「さっきは繋がっていなかったかも…」ということがあります。
繋がろう、繋がろうと思っていても繋がらないので、一旦、趣を変えて「今日は自分の内側だけに集中してみよう」としました。この発想は、私の閃きとガイドのレクチャーとの区別ができない感じでした。
1日、自分の内側だけで過ごしてみると、不思議なくらいに内側に静寂が広がり、この感情は一体何に対して反応しているのか、ということが明らかに見えてくるようになりました。「これがガイドの目で見るということかな」と掴めたような気がします。
はじめは「内側だけで過ごしたら、誰とも会話をしなくなるんじゃないか」と危惧していました。ですが、内側だけで過ごしてみると「今、ここで、これを言いましょう」ということが自然に湧いてくるようになって、自分の思考で話すことが減りました。
そんな風にして1日を過ごした後、ビジョナリーアーティストの深瀬啓介さんのブログの記事を読んでいて、やっと気付いたことがありました。
そのブログの記事には、聖なる場に入った後は古い概念を手放すか、事実を受け入れるかという葛藤が生じる。その葛藤の原因は、過去の古い概念を「象徴と物語」の中で“逆さまに”縛り付けていたからだ。とありました。
聖なる場に入る体験はできたし、過去に基づく古い概念を手放しはじめているけれど、何も状況が変化していないという事実は、これからも何も変わらないということを証明しているように思えてしまう。まさにこれが葛藤なんだろう。と、ここまでは理解できたように思います。ですが、次の「象徴と物語」の中で“逆さまに”縛り付けていた」という部分は、なんとなく理解できそうだけど、自分のどこに該当するのかが見えないなぁ、と思っていました。
私の過去に基づく古い概念とは“私は誰にも愛されるはずがない”であったが、それは“愛は自分の内側にしか存在しない”を“逆さまに”縛り付けていただけだった、ということだったのか!これですね!と、ようやく理解できました。
自分を苦しめていたもの。“逆さまに”縛り付けている、というのはこういうことだったんですね。
自己肯定という真理を“逆さまに”縛り付けているから自己否定で苦しむ。
全てあるという真理を“逆さまに”縛り付けているから何も無いと感じて苦しむ。
愛は自分の内側にあるという真理を“逆さまに”縛り付けているから愛はどこにも無いと苦しむ。
流れに逆らって苦しむことで見つけていく、というコントラストの人生にするのか。
流れに任せて、喜びの中で見つけていく人生にするのか。
おそらく生まれる前に自分で決めて来るのでしょうが、私はきっと「深い闇から光を感じる体験をしてみたいです」と、振り幅MAXコースを選んだので、逆さま度も縛り付け具合も強めなんだと思います。
でも、それも選択できるところまで来ました。
いっそのこと、誰も好きにならない方が良かったとさえ思います。
闇の中にいる方が、実は好きだからです。
闇にいれば自分の汚れを見なくて済むから。
誰とも関わらないで済むから。
だけど、彼を好きになって「どうやったら私の愛が表現できるのか」と模索している内に「私の愛は感謝を伝えることだった」ということを思い出せました。
自分への感謝は湧かないけど、彼への感謝は湧いてくる。
彼に私の素直な気持ちを表現したい、と思って何度も書き出しては、愛じゃないものが隠れていないか、と点検しました。
ガイドに「大丈夫だから」と言われても、やっぱりこっちの方が愛じゃないのかな?と揺れに揺れまくっていました。
そして何度も「どっちが愛なの?」と自問自答してみた結果、やはりガイドがOKを出したほうが愛だった、と気付かざるを得ない感じでした。
ここ最近、ようやく私の中で腑に落ちた結果だったなぁ、と、達成感を感じているのですが、そもそも、なぜガイドがOKを出したほうがしっくり来たのか。昨日、その理由に、やっと気付きました。
彼への感謝の気持ちが表現できていたからだった、ということです。
誰にも感謝したいと思えなかった私が、唯一感謝したいと思える人間に出会えたこと。これこそが闇の中から光を感じるというプランが達成された瞬間だったのかも知れませんね。