夏草に想う | laphroaig-10さんのブログ

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◎夏草に想う


 道端の夏草の勢いよく伸びゆくさまに、草刈の必要性を感じる季節となりましたが、庭などの美観を損ない排除すべき対象の草も、古代の人たちは我々の感覚とは比較にならないほど豊かな広がりを持ったイメージで接していました。神話的世界では、草の成長力とその多さから人民のことが「青人草」(古事記)と称され、またこの現実世界である葦原中国がいまだ平定されていない混沌たる状態を「草木みなよく言語有り」(日本書紀)と、草木の精霊のざわめきとして描写しています。


 一方、実用的な面でも、家畜の飼料や壁、屋根の材料として無くてはならない存在であり、そのことから「くさ」は、材料や種類を意味する「くさ(種)」という語に分化したようです。このような生活に密着した「草」であったからこそ、非日常的な場面においても、重要な役割を果たしてきたものと思われます。神祭りの場には、人の手の触れない遠い野山の「荒草」が「いつの席」すなわち清浄なも敷物として設えられ(延喜式祝詞・出雲国造神賀詞)、草を用いた仮の枕で旅寝をした万葉人は、そのわびしさを「草枕」と表現し、 君が代も我が代も知るや磐代の  岡の草根をいざ結びてな (万葉集・巻1・10、中皇命)と、旅路の平安を祈って草や木の枝を結び、その霊力にあやかろうとしました。万葉人の目は、草の根にも向けられ、細かく長い「菅の根」は「ねもころ(懇ろ)」や「長し」を導く枕詞として多用されています。


 この、菅笠、菅枕、菅畳にも作られた「菅」を巡っては、その形状と名称から、さらにイメージを膨らませています。その「真っ直ぐ」なかたちと「すが」の語は、祓や禊によって期待される境地「すがすがし」とのイメージの重なり合いによって、実際の儀礼において、「菅」を「手に取り持ちて」禊をしたり(万葉集、巻3、420)、祓において細かく割かれたりしました(延喜式祝詞、六月晦大祓)。


 何ごとをも分類したがり、分析的に捉える習慣のある我々も、古代の人たちの、物事をイメージの絡み合い、重なり合いとして捉える心性を、現在に伝わる祭りや神事の中に再発見できるのではなかろうか、と伸び行く我が家の狭い庭の草を眺めつつ想いました。(草抜きしなければ……)