神道の自然観と神祭り
神道の祭りは、生活の中で培われた自然の恵みや命に対する慎み深い信仰に基づき、古来日本人は、稲の豊作を祈り、太陽や雨風、水の分配などに関わる神々を祭ってきました。日々の生活になくてはならない水や火や木を神々の恵みと感謝し、あるいは時として荒れ狂う水や火の脅威に恐れ慎む心こそが神道の神祭りの信仰であり、生活の知恵でもあります。
そのような神道の基層的信仰を、自然界の事物や現象に聖なるもとして崇拝する「自然崇拝」と捉えることもできますが、それは「信仰」のみならず、自然界の事物や現象に対する恐れと慎みの心を以て執り行われる「自然儀礼」を伴っています。近代化に伴って大きく生活様式が変化したことにより、自然に対する信仰は日常においてはあまり意識されないと思いますが、現代人にとって忘れがちな「自然に対する礼儀」を取り戻すためには、「自然儀礼」によって受け継がれてきた伝統的な伊勢神宮の祭りに学ぶことも有意義だと思います。
伊勢神宮式年遷宮の祭り
人間がこの地上に生活を営むためには、土地を開拓しなければならなりませんし、住居の建築のためには、一本の樹木を伐り出すことから着手しなければなりません。いわば人間の生の営み自体に自然破壊の危険性が含まれています。そのような自然破壊を最小限にとどめてきたのが「自然儀礼」の実践ではないでしょうか。
伊勢の神宮では二十年に一度社殿を建て直し、神威を更新する式年遷宮の制度があります。自然に対する信仰と儀礼は、平成二十五年、六十二回を数える遷宮における一連の諸祭儀において典型的なかたちで認められます。
御用材伐採にあたっては、山の神や木の神を感謝の心をもってお祭りをします。まず、新社殿の用材を伐採するの「山の口に坐す神」に対して「山口祭」が伊勢の祭場で執り行われるのをはじめ、正殿の床下中央に建てられる「心の御柱」の用材を伐採するに際して、その「木の本に坐す神」を祭る「木本祭」、さらに実際にを伐採する長野県の祭場では「御杣始祭」が古式のままに執り行われ山の神が祭られるとともに、御神体を納める器を作る用材「御樋代木」や「仮御樋代木」が伐り出されます。
式年遷宮では、総材積、約八五〇〇立方米もの大量の御用材を使用しますが、大正十二年以来計画的に御造営用材生産のための植樹が行われてきました。第六十二回式年遷宮では、七百年ぶりに造営用材の二割を伊勢の宮域林から供給できることとなりました。このように、神宮宮域林においては、二百年後の御用材の確保を目標に檜の植樹や間伐など、森を守り、そして育む作業が脈々と行われています。
古来日本では、新たに建造物を建てる際には土地の神々を和めるための「地鎮祭」が執り行われてきました。神宮式年遷宮では、古くは「宮地鎮謝」今日では「鎮地祭」と称されていますが、いよいよ御造営にあたっては、土地を浄化、聖別し、土地の神に対する奉りものとも言うべき「鎮物(忌物)」が埋納され、「物忌」という童によって起工の儀式が聖なる道具「忌鎌」「忌鍬」(古代では「忌鋤を用いて執り行われます。
自然儀礼から自然への礼儀へ
さまざまな地球的規模の環境問題の解決には、科学技術とともに人間一人ひとりの自然に対する意識の革命が必要とされていますが、伊勢の神宮をはじめ神道が現在に伝えてきた「自然儀礼」の力によっても、すなわち人間の心の奥底に眠っている「自然への礼儀」の覚醒が期待できるのではないでしょうか。「自然儀礼」は、単なる習俗や形式的な「しきたり」ではなく、人間の生命と神々や自然の生命との一体感を自覚する重要な儀礼でもあります。
要するに、現代人が再び自然への恐れと慎みの心を取り戻すためには、歴史上に存在した自然に対する思想を再発見してその現代的意義を説いたり、教育することももちろん重要ではありますが、「自然儀礼」を通して、つまり自然を恐れ慎むという「形」の実践を通じて、現代人もその「形」に込められた「心」へと導かれることもあるのではないでしょうか。そのような意味においても神宮式年遷宮諸祭儀の文化的価値は大きいと言えましょう。