敷田年治翁百年祭詞(平成十四年一月二十三日) | laphroaig-10さんのブログ

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敷田年治翁百年祭詞


此の高殿を厳の斎場と天津菅曽の清々に祓清めて神籬差立て招奉り坐奉る、言はまくも由々しき敷田年治大人命の神霊の御前に皇學館大学助教授本澤雅史謹み敬ひて白さく、


大人の命や文化十四年七月二十日、豊前国宇佐郡敷田村なる八竜宮の神職の家に生出坐て、幼き頃より御国学びの道に志し、天保十年宇佐郡四日市町蛭児神社の神職吉松能登守の養子となりて神祭に仕奉り給ひしかど、嘉永六年には江戸に赴き給ひて旗本等に仕へつつも学びの道に勤しみ励みて坐し坐せば、文久三年より以降、和学講談所、大阪国学教習所の教官に任けられ古典を教へ給ひ、明治の新代の二年、藩校の教授に召されて皇典を説き教ふる給ふこと三年、明治五年河内国門真村に隠りて専ら著述の業に心を尽し給ひぬ。


更には明治十四年神宮祭主久邇宮朝彦親王の思し召し招き給ふ随に神風の伊勢の国神宮教院講究課育材掛町とし召されて「気節」の心を以て教育に与り給ひ、明治十五年、賀陽宮邦憲王を教へ導き奉りつつ皇學館創設の準備を司り給ひぬ。神宮教院本教館の閉ざされ皇學館の開き置かるるや、開館式にて斎主となり給ひ御祭仕奉りて引き続き国史を講じ給ひ、大人の命の皇學館教頭として著しき功績は普く皆人の仰奉る所とはなりぬ。


しかして明治十六年病に罹り河内国に帰り給ひては、明治二十一年大阪北堀江なる地に百園塾を開き給ひ、国典を講じ、生涯教育と著述に励みて『標注播磨風土記』『古事記標註』・『日本紀標註』・『祝詞弁蒙』『古葬徴』等多数の著作を著し給ひ諸人等其の学徳を仰ぎ慕ふもの少なからずありき。


かくして明治三十五年(一九〇二)一月三十日八十六歳を一世の限と入日なす隠ろひ坐ししより指折り数ふれば此処に百年は来経行きぬ。


故今日はしも皇學館大学史料編纂所所長島原泰雄主祭者となり大人の命の百年の御祭仕奉らくと御前に御食御酒種種の味物を献奉り、大人の命の御孫敷田年博を始め関係深き遠近の人等又学園の理事教職員学生等参集侍りて太玉串の執々に拝み奉る状を御心も平穏に諾ひ聞食して、今も往先も皇国学びの道の行く手を見晴かし導き給ひ、惟神の大道を万千秋の長五百秋に神路の山の鉾杉の高く厳しく守り幸へ給ひ、今日集へる諸人等各も各も皇御国の大御栄に心を尽くし力を致さしめ給へと謹み敬ひて白す(平成十四年一月二十三日奏)