新曲が何かに触れたのか、それともただの季節のいたずらか。ひょんなことから遠い昔のことを思い出していました。


 誰の記憶の中にも、映画のワンシーンのような物語のひとつやふたつはきっとある。これは私の視点からの記憶の中の物語です。記憶違いも多々あるかと思いますがご容赦を。


思い出はいつも美しい。


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 最後に連絡をしたのは私からだと思っていたけど違った。

 

 彼が家を出て行ってから2年か、3年か。「父親が亡くなった」と連絡があった。物心がついた時には母子家庭だったと聞いていた。「迷っているのなら会いに行ったら?」そう伝えたと思う。元気?と尋ねられ、がん検診に引っかかり入院と手術を控えていることを打ち明けた。見舞いに行くと言ってくれたが断った。短期入院で見舞う暇もなかったから。これまでずっと、最後に連絡をしたのは私の方からだとばかり思い込んでいた。またふらりとどこかへ消えてしまうんじゃないか、当時はそう思っていたけれど、あれから仕事も辞めずに続けていたようで、少しほっとした。生きていればそれでいい。

 

 あれは20歳になる年だったか、私は別れた恋人を忘れるために出会いを探していた。様々な年齢職業の人が集まるという呑み会に参加したのもそんな理由からだった。総勢20人ほどは居ただろうか?その中に彼がいた。同い年の大学生というだけで親近感が湧いた。話を聞いてみると京都からバイクで来たという。その行動力とアクティブさに興味をそそられた。今度、大学の夏休みに北海道へツーリングに行く、その時には途中立ち寄ってもいいか?というので、私は期待半分、呑みの席の社交辞令半分でイエスと答えた。

 

 大学4年になる年、彼は休学をしてバイクで日本一周の旅に出た。携帯電話は持っておらず、連絡は時々送ってくるメールだけだった。今回の旅を含めたこの1、2年の間に、彼は何度か我が家に滞在したことがあった。皆、彼の旅先での話を楽しみにしていたので、彼の滞在中は、仲間達が入れ代わり立ち代わり入り浸っては、夜な夜な酒を呑んでいた。長い時で1週間ほど滞在したこともあった。何度言っても彼が現れるのは突然だった。天気や旅先での出会いや、気分もあるのかもしれない。来週くらいに寄るかもしれない、いつもそんな感じだった。それと同じで出て行く時もいつも突然だった。仕事から帰るともう居なかった、なんてこともあった。明日から天気が崩れそうだから、と。その瞬間がどんなに楽しくとも、いつか近い未来には居なくなる人だから、といつも自分に言い聞かせていた。

 

 翌年、彼が復学して大学最後の年の夏、私は気晴らしにどこか遠くへ行きたくて、電車を乗り継いでプラプラとしていた。彼に会えたらいいな、という気持ちも少しはあったと思う。「今日か明日か暇?」たぶんそんな感じの唐突な誘いだった。夕暮れ時、二人で彼の家の近所を散歩した。住宅街を歩くとアスファルトからの照り返しがジリジリと肌を焼いたが、苔むした寺の境内にはひんやりとした空気が立ち込めていていた。夜には車で宇治川へ蛍を見に連れて行ってくれた。人生で初めて見る蛍だった。来年の春から自転車で海外へ旅に出る、どれくらいの期間になるのかはわからない、と聞いたのはその時だった。

 

 そして24歳になる年の春、彼は旅に出た。元々頻繁に会ったり連絡を取り合っていたわけでもなく、日本に居ても居なくても違いはないようにも思えるが、手の届かないところへ行ってしまったような気がした。数カ月に一度、気まぐれのように返信をくれるメールで、彼の無事と旅がまだ続いていることを知った。一年が過ぎ、二年が過ぎ、どこか居心地の良い場所を見つけたのかもしれない、もう帰って来ないのかもしれないと思っていた。

 

 そうして二年半が過ぎようとしていた晩秋、帰国を知らせるメールが届いた。最後まで自転車でと思っていたが冬になってしまい、資金も底をついてきたのでシベリア鉄道でロシアを抜けて帰国する、帰りに我が家へ立ち寄りたかったが通らないルートになってしまった、と。長旅の最後に立ち寄ろうと思っていてくれたことが嬉しかった。

 

 時は過ぎ、帰国から一年半ほど経った6月のある夜、突然携帯電話が鳴った。夜の21時は過ぎていたと思う。「今ワールドカップを観てるんだけど、今からそっちへ行ってもいい?」と。なぜ突然今からなのか?どうやって来るつもりなのか?バイクで?京都から横浜まで休まずに走り続けたとしても朝になる。何より私には当時、別に気になっている人がいた。一度は断ったが再び連絡があり、もう静岡まで来ているという。「来てもうちには入れられない」ともう一度伝えた。彼が我が家へ来ることはなく、連絡は途切れた。京都で「旅に出る」という話を聞いてから実に5年近くの歳月が流れ、私達は28歳になろうとしていた。

 

 数日してからか、追い返しておいて心配になり連絡をした。そこから2週間か3週間か、毎晩のように電話をした。彼は、今どこにいるのかも何があったのかも言いたがらない。細い糸が途切れてしまわない様に電話を繰り返しているうちに、彼がやっと重い口を開いた。今は奄美の知人宅に身を寄せているという。彼はダイバーだったので、島にいるのなら毎日潜ったりしてるの?と聞いてみたが、どうやら全く外へ出ていないらしい。そんなところで引き籠っているくらいならうちへおいで、と何度も伝えたが、なかなか「うん」と言わない。追い返したのは私なのだから当然だ。

 

 そうやって、ただ時だけが流れていった。実は意外とのびのび暮らしているのかもしれない。でもどうしてもそのようには思えなかった。もしかしたらこのままどこか遠くへ消えてしまうかもしれない。私は数年前に祖母を自死で亡くしていたこともあり、何もなければそれでいいが、何かあってからでは遅いと思うようになっていた。そして痺れを切らしたある日、来ないのならば私がそちらへ行くから!と、彼に伝えた。

 

 奄美の離島にいる、という事以外、何も聞かされていなかった。飛行機を乗り継いでいくほどの金銭的余裕もなく、船で往復するにはかなりの日数がかかりそうだった。行ったところで会える保証もない。それでも「やらない」という選択肢は無かった。その翌日から、ぷつり、と彼は電話に出なくなり、連絡も取れなくなった。確信はない。でも、もしかしたらこちらへ向かっているのかもしれない。いや、私があまりにしつこいので鬱陶しくなったのかもしれない。


 一日が経ち、二日、三日目を過ぎた頃だっただろうか。彼から一通のメールが届いた。

 

「かき氷、何味が良い?」

 


 彼が旅に出ていた2年半の間に私は埼玉から横浜へ引っ越していた。よく溜まり場になっていたのは前の家の話で、今の家には彼はまだ一度も来たことが無かった。旅の途中に一度だけ「手紙が欲しい」と住所を伝えたことがあったが、そんなものはとうの昔にどこかへ行ってしまっただろうと思っていた。だがしかし、私の予想は外れていた。

 

 7月半ばのある日の昼下がり、そうして彼はやってきた。特別話し込むでもなく、ただ静かに時は流れていたように思う。生きていてよかったと思った。日も暮れてきた頃、ドーンと大きな音が響いた。花火だ!二人で外へ出て夏の夜空に散る大輪の花を眺めていた。とても久しぶりのはずなのに不思議とそんな感じはしなかった。

 

 そこからは毎晩、お酒を呑みながら旅の話を聞いたり、歌ったりギターを弾いたりしながらひと夏を過ごした。休みのたびにバイクで二人乗りをして色々なところへ連れ出してくれた。お金は無かったけれど楽しい夏だった。約束も計画もなく、昼も夜も関係なく、思いつくままに色々なところへ出かけた。真夏のバイクは熱風と排気ガスまみれで快適とは程遠かったが、免許を持たない私にとってそれは、まるで羽が生えたような体験だった。いつも出かけるのは突然で、仕事帰りに身支度が整っていないまま、その足で出かけることも多かった。バイクの後部席は足元が不安定で、脱げ落ちそうになったピンヒールのサンダルを手に持ったまま、東京のど真ん中を走り抜けたこともあった。夜の六本木の街を裸足で駆け抜ける爽快感は格別だった。

 

 その後、ひょんなことから彼の仕事が決まり、私たちの予定や生活のサイクルは段々と合わなくなっていった。

 

 それから一年ほどして彼が引っ越すことになった。好きなだけ居ればいい、いつでも出て行っていい、そう言って彼を呼び寄せた私に、彼を引き留める理由は無かった。新しい部屋の寸法を測ったり家財道具を揃えるのにも付き添った。離れたくない気持ちと、これ以上一緒には居られないのだろうという悟りのようなもので、日に日に私の心は塞いでいった。そして8月も終わりに近づいていたある日、彼は家を出た。もう戻る気はないのだろうと、言葉にはせずとも何となく察していた。

 

 最後に連絡をしたのは私からだと思っていた。鍵を返して、と。


 彼が鍵を持って行ったのは今回が初めてでは無かった。京都で蛍を見た日、私は、彼が以前に持ち帰った鍵を返してもらい、借りていた手作りのペンダントを彼に返していた。

 

 鍵はちゃんと返してもらった方が良いよ、そう助言してくれたのは、一年前に彼を追い返した時に気になっていた人だった。