このブログは盛大にネタバレを含んでいます。セットリストも書いてあるので、北九州の学祭に行く方はご注意ください。

 Teleの早稲田祭での講演の感想を記す。Teleの学祭の話題になる度に、早稲田祭に出てほしいと思っていたし、絶対によい化学反応を起こして、より輝けると信じていたので、実現して本当に嬉しかった。そして中身は想像以上だった。Teleチームはもちろん、ブッキングしてくれたWASEDA ARENA SUMMITの皆様、早稲田祭2025運営スタッフの皆様、すべての早稲田大学関係者とTeleファン、そしてライブにかかわったすべての人に感謝して回りたい。

 今回はTeleのライブ本体に関係ない部分も多いが、筆者の立場から感じたことを率直に表現してみた。かなり、早稲田文化ということに比重を置いてTeleの感想を記している。早稲田生でTeleを初めて聞いた方には、この感想を読んでもっとTeleのことを好きになってほしいし、逆にTeleファンの方には、早稲田文化を愛してほしいなと思ってこの文章を書きます

 なお、MCの内容等はTwitter(自称X)上の多くの方のつぶやきを参考にさせていただきました。記憶力のある方々は偉大です。

 

Setlist

01. 残像の愛し方 02. 包帯 03. ロックスター 04. サマードッグ 05. Véranda 06. 花筏 07. 金星 08. 私小説 09. バースデイ 10. 花瓶 11. 硝子の線 en. ぱらいそ

 

Support band members

Ba. 森夏彦 Key. 奥野大樹 Gt. 馬場庫太郎 Dr. 諸石和馬

 

感想

 Teleにとっての2025年に出演する3本の学園祭のうちの2本目である早稲田祭公演。Teleが大学生くらいの年代の人々に刺さっていることを実感していて嬉しいなと思いながら聞いていた。

 

 さて、早稲田の卒業生である筆者にとっては、運営スタッフとして大学1-3年の青春を費やした非常に思い入れがある学祭で、大好きな出演が発表されたときには興奮が抑えきれず、外に出て走り出すほどだった。元来から早稲田×Teleの化学反応はすごいものがあるだろうと考えていたので、それが実現するかと思うと、楽しみで楽しみで仕方なかった。そして、それは想像以上の形で現実になったので、その興奮を文章に残してみようと思う。

 

 「早稲田大学」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。多くの人は「早慶」っていうことばに聞き覚えがあり、「頭がいい」という印象であると思う。一方で、「在野精神」というものを大切にしているように思う。誤解を恐れずに言ってしまえば、雑草のように、強く耐え抜いて、挑戦していこうという文化がある。だからこそ、恥ずかしさを捨てて、自分をさらけ出す奴が偉いという風潮があるような気がするし、実際に称賛されている。そんな空気を私は大好きだし、Teleがライブ中によく言っている「恥ずかしさを見せてくれ。この瞬間は自分らしくいてくれよ」というメッセージとすごく親和性が高いと思うし、これが自分がTeleを好きになった理由の一つなんだなあと思う。

 

 早稲田祭は、その「早稲田文化」を発揮する最大の祭典である。そこには、大学生らしさが発揮された、それぞれの「好き」に対する情熱があり、その情熱が開花する瞬間が早稲田祭である。それが人々を魅了している。

 

 ここまではTeleとあまり関係ない話をしたが、ここからは本題に入っていこうと思う。Teleのライブは、それ単体ではなく、ここまで述べた意味の「早稲田らしさ」を引き出す最高のライブだったという意味で早稲田祭で開催された意味が大きくあると思うし、MCや煽りでそれが最大限に発揮されていた。

 

 「残像の愛し方」はSEとかはなく突然始まった。あの一音目の魅力はすべてを凌駕すると思う。客席の湧き方からして、この曲の披露で、観客の心を掴んだのは間違いないと思う。最終盤の「愛し方なんかずっと間違い続けよう、憎み合うように踊りましょう。そんな一瞬を一生愛していくからさ。」という歌詞は、大学生という瞬間を早稲田という地で過ごし、文化を愛すた当時の自分の想いに寄り添ってくれる気がしたし、現役の学生たちもそう思っているのではないかと思う。

 

 「包帯」の冒頭のMCでは「あなたたちがどこから来たか、どこへ行くか、そんなの僕には興味なくて、この瞬間を大事にしよう!」という趣旨のことを言っていた。前の曲からのつながりも良いし、横アリの伝説のMCを思い出した。早稲田大学校歌には「集り散じて 人は変れど 仰ぐは同じき 理想の光」という歌詞があり、どこかのスピーチでこの精神を大事にしようと聞いた気がする。大学生は基本的にはその4年間の人脈で、社会人になって立場が変わってしまっても、同じ光を信じようという精神だ。ライブにも似たことがいえて、ライブが終わってもそのライブの言葉をそれぞれ何度も反芻していくのは、ライブという光を信じているからだと思う。きっとこれが「残像になる歌」ということだ。馬鹿げている世界を踏み越えるために、信じる光を見つけられてよかった。僕にとってはその代表例がTeleと早稲田大学だと思う。

 

 「ロックスター」はやっぱり「『とっくにお前はさ、僕にとっての奇跡なんだ。』って」という歌詞が、ど真ん中ストレートに刺さってきた。ステージ上にいるTeleというロックスターも、ステージがある早稲田も、周りの環境も全部奇跡だと思う。同時に僕だけが愛を突きつけていたんだ。でもそれは巡り巡って、誰かに刺さって、誰かの愛は自分に突き刺さるんだからいいんだよな。それが可視化されるのが学祭だとも思うし。そして、最後にジャンプを煽るくだりがあるが、そこでみんなジャンプしてたのに、喜多朗見てなくて「見てなかった」って言ってたの面白かった。

 

 「サマードッグ」は、「俺が夏だと思ったらまだ夏なんだ~」という掛け声と共に始まった。はい、まだ夏でございます、暑いです、最高です。この曲始まるときの脳汁えぐいんだ。「なんもかも君のため踊る夜になる。」って逆にTeleに言ってやりたいって思いながら聞いて、歌って、コール&レスポンスもしてた。最高に楽しい踊りをありがとう。恋は法律じゃない!ただ踊りたい!ってずっと叫んでいたい、個人的には「たのし~~~~~~」っていう曲。

 

 「Véranda」の始まりでは、「僕の知っている早稲田生はこんなもんではありません。なんでそんなにモラルがあるんですか?モラルがある人は慶應にいってくださ~~~~~い!!」って言っていた。禿同。いや、排他的なのはよくないんだけど、早稲田の良さは頭のねじが外れているところにある。(ふつう、100km歩くイベントにチケット争奪戦の後1000人殺到しないし、一番大きい野外ステージで赤ふんどしの男がゲテモノ対決しない。そして、高田馬場のロータリーを酒場にしない。)一瞬をアホに過ごす早稲田生に対して最高の煽りだったと思うし、ここで私の心のボルテージは一気に上がった。歌詞は「僕は君のベランダを知らない。あの部屋では遂に煙草を吸わなかったから。」に代表されるように、全体に寂しいけど、ポップに消化する最高の曲。あとサビの手を左右に動かすやつ、校歌を思い出した。

 

 「花筏」は一転、弾き語り調で聴かせる曲。「たまには一人生きようよ。そして、たまには会って話そうよ。」という歌詞は、特に生活が独り立ちしている人に響く。呪いになる前に愛しきってしまおう、というメッセージは、輝く一瞬に時間もお金もかける大学生たちをよく表していると思う。恋人も、友人も、大学も。曲中にある「明治通り」はキャンパスの近くを通っていて、なじみ深い人も多いはず。僕はだれも居ない深夜の明治通りを思い出しながらこの曲を聞いて、大学4年間に思いを耽ることがよくある。

 

 「金星」はまた一転、明るい曲調で始まる。相変わらず、最初のギターはかっこいいし、ラスサビに向けたキーボードの音はテンションを上げさせるのには最高である。MVに出てくる、飲み会などで周りの雰囲気になじめない主人公は、大学によくいるし、私もコミュニティーによってはその一人で、いろんな大学生に響くんじゃないかと思う。そんな時でも、曲を聴いて踊れば美化されるんだと思うし、Teleのライブはその一助となる素晴らしいものだと思う。

 

 「私小説」は何度聞いてもテンションが上がる。ひとりの人間に思いを馳せる詩的な歌詞と、ポップなメロディーが魅力的な曲。「あなたによく似た人を私、この町で今も探しているの。」は"I miss you."の漱石的な和訳じゃないかと思う。Aメロの手拍子に対して「上手」っていう喜多朗に惚れそうになる。たくさん跳ねる。最後のジャンプの煽り、聞き取れなかったけど、A1ブロックの後方から見てかなり美しいジャンプの光景だった。一体感が最高で、ステージ上と観客を見渡しやすい特等席で見れて良かった。やっぱりTeleのライブにはこれがないとね、と毎回思う。

 

 「バースデイ」はイントロからバチバチのライブの超定番曲。「バースデイ」というタイトルですが、バースデイソングっぽくはない。Teleのデビュー日にリリースされた曲で、「僕らに明日はないんだぜ。今すぐ何かを変えようぜ。いつまでたってもこのままで、いられると困るだろう。」と覚悟を示す歌詞が印象的な曲である。現状維持は衰退って、成功しているひとはよく言っている気がする。現状維持をすることも大変だしそれは大事なことだと思うけど、かならず決断は必要だし、何かを決断する時にはこの曲に背中を押される。そして、やはり最大の魅力はアウトロの楽器隊紹介だと思う。ベースの森夏彦さんとドラムの諸石和馬さんは早稲田の卒業で、調べると同級生らしい(ギターの馬場庫太郎さんも早稲田を受験して落ちてしまったらしい。サポートたち関係者めちゃ多いじゃないか。また早稲田祭出てくれよ!)。その関係もあって夏彦さんに「先輩の意地見せてやれよ!!」って言ってたのが印象的だった。いつもよりベースソロに気持ちがこもっていた気がする。そのあとも各楽器のソロは文章に起こせないくらい圧巻なもので、いい意味で「これが脳が溶ける実感か」と思うのであった。「お坊ちゃんたちに見せてやろうぜ、本当の祭りとは何かをな!!!」っていう煽りをしていたのは、本当にテンションが最高潮になる瞬間であった。

 

 「花瓶」は冒頭でみんなで歌うのが印象的な曲である。最初に、「早稲田のひと~」「早稲田以外のひと~」ってやつをやっていた。人数差がすごいので、早稲田側に勝利の気配はなかった。「皆さんには自由でいて欲しいし、僕が手拍子してる時も手拍子してもしなくてもいいけど、僕にも自由があるんです。みんな歌ってくれますか早稲田!」という煽りから合唱が始まった。テンションが上がって全力で叫んだ。この曲のもう1つ印象的な「全部嫌になった!!」という叫びも、学祭ならではの雰囲気があるなって思った。

 

 「硝子の線」はピアノのフレーズとともに「自由とはあらゆる不自由の上で成り立っています。それは息を吐くように、挨拶をするように、存在するものです。ここにいるみなさんは、自由にできて、エリートになって、人を不自由にできる立場に行くわけです。だから、不自由を見逃すような大人にはならないでください。」といった喜多朗のメッセージから始まる。このメッセージは自分に向けられているなと強く思った。「タコピーの原罪」のエンディングになっているこの曲。タコピーの原罪は、恵まれているとは言えない親の下に生まれた子供たちを"不器用な善人"のタコピーが救おうとするが、うまくはいかないという物語で、喜多朗はタコピーに自分を投影してこの曲を書いたと言っている。そういう子供たちをはじめとして、世の中には何かしらの理由で自由を制限されている人がいる。自分はそういう不自由とは関係ない部分にたまたまいるからこそ、何かしらで自由を広げる活動をしたいとおぼろげに思っているが、何かが出来ているわけではないし、何もわからない。ごめんね。無力な自分に比べて、音楽という表現を通して多くの人にこのことを伝えているTeleに尊敬する。ここを文章にするにしても、伝わるように書けない。硝子の線の終わりにすっと退場して本編が終わった。この雰囲気、かなり好き。

 

 アンコール待ちでは、最近のワンマン公演では定番となりつつある「花瓶」の合唱が行われた。前の方で超目立ってた人がいるっぽいMVP。

 

 「ぱらいそ」の前では、「この曲は友人に向けて書いたんだけど、その人も早稲田卒だった。ここにいる大人たちを代表して2点言います。君たちが要領が良くて、頭が良くて、優しくても、いつかは限界がきて倒れます。そして倒れても良いってことです。」という言葉で始まった。本当に響く心にMCだった。その友人は、どんなにしんどくてもへらへら笑っている人だったそう。「光が見えなくたって、言い聞かせる、まだ僕は大丈夫。」「張り詰めた糸を渡るまともさを讃えるなら、抱きしめて下さい。」「ぱらいそよ、馬鹿が見る!ふざけきって、お前を置いてゆく。」どんな馬鹿げた世界も、光が見えなくなった世界だって、ふざけまくって、かつて見た理想の光を信じて生きていこうって、前向きになれる気がする。そして、僕らにとっての楽園はTeleのライブであり、早稲田大学であり、全力でふざけていられる幸せをかみしめていこうと思う。

 

 総じて、本当に最高のライブだった。早稲田祭とTeleが交点を持ったことが何よりもうれしい。絶対に、Teleの雰囲気は早稲田に合うって確信してたけど、その通りになった。「自由に」「ふざけ切って」"恥ずかしい"姿を見せれたんじゃないかと思う。早稲田祭2025のテーマ「人生に、つながろう」にあるように、早稲田とTeleと両方とつながれた人生が幸せだと思う。