まあ、ざつと、そんな間柄にすぎなかつた。同じ町内に住んでゐたとはいへ、長い期間、顔を合せる機会があつたのではない。彼女がどこかへ姿を消したか、自分が先に一家と共に東京へ引移つたのか、そのへんのこともぼんやりしてゐるのである。
それにも拘はらず、彼の前半生を通じて、少年時代の想ひ出を飾るたゞ一人の女性の存在は、彼にとつて、かけがへのない存在にちがひなかつた。それは、まことに頼りない、話にもならぬ話ではあつたけれど、ほとんど毎日のやうに、例の立看板の名前を見てゐるうちに彼女のかすかな印象は、彼の精いつぱいの空想に色どられて、実はこの世に存在しない一女性の幻影を作りあげつゝあつたのだ、と、言へぬこともないのである。
見るかげもなくぶざまな赤ん坊は、それでも、真新しいうぶ着につゝまれて、母親の傍らにぽつんと寝かされた。
妻の順子は、もう血色ももとに復し、産婆が、さう軽い産ではなかつたといふのに、愛想よく礼の言葉を述べ、やがて、彼の方へ、眼顔でなにか合図をしてみせた。彼はどぎまぎしながら、耳を妻の口に近づけた。
