「徹司、あんた聞いてるの?」
朝子の声がとがってきた。
そろそろ母親が本気で怒るかも、と察した徹司は、ゲームの手を止めて振り返った。
対戦格闘も好きだが、家ではもっぱらRPG系統を好んでプレイする。
ここしばらくは、『バハムートラグーン』というタイトルに挑んでいた。
「聞いてるよ、旅行でしょ?」
「そうよ。前にも聞いたけど、部活とか、あと文化祭の練習とか、無いのよね?」
「うーん……それが、どうも……」
「は?何言ってんのよ、旅行の日はだいぶ前から決まってるのよ?一日二日くらい、休めるでしょ?」
「そりゃあまあ……そうなんだけどさ」
徹司は、左手で頭をガシガシとかいた。
正直なところ、徹司はすでに家族旅行に行く気持ちはほとんど残っていなかった。
ただそれを正直に親に言い出せずにいたため、出発まで残り数日というタイミングで親に詰問されることになってしまったのである。
「あんたねえ、冗談やめてよ?お金だって、全部はらってあるのよ?」
朝子は朝子で、次男の煮え切らない態度から、真意を悟ったのかもしれない。
だんだんと語気がするどくなってきた。
「ごめん……でも、やっぱり俺、旅行キャンセルする。練習が、今すごく大事なところで、みんなに迷惑かけたくないし」
「それならそうと、何でさっさとそう言わないのよ?キャンセル料とかだって、全然違うのよ」
全くその通りなので、徹司はだまってうなだれた。
どう考えても、徹司が悪い。
朝子は大きくため息をついて、あきらめたように言った。
「あんたが演劇にそこまで夢中になるなんてねえ。想像もしなかったわ」
「そうか?」
「そうよ。昔っから目立つタイプじゃなかったし、人前で話すのも好きじゃなかったでしょ?その辺は、お兄ちゃんとは違ってたものね」
徹司の一つ違いの兄、建司とは、確かに性格は全く違っている。
小学校の頃からスポーツができて何かと目立っていた建司とは違い、徹司はひっそりと図書館に通うようなところがあった。
それは徹司のコンプレックスでもあり、その後の進路にも様々な影響を与えたのだが、さすがに親にそのようなことは言えるものではない。
もう一度ごめんと謝り、徹司はそそくさと二階の自分の部屋へと退却した。
これは親父にも怒られるかなぁ、と、徹司は少しびくびくしている。
父親の征司は、普段はあまり小言を言うタイプではないのだが、やはり徹司としては、征司を本格的に怒らせるのは避けたいところだった。
その征司は、まだ仕事から帰ってきていない。
できれば今日は征司と顔を合わせたくない徹司だったので、しばらくは部屋にこもって台本を眺めることにした。
机の上に置いてあるCDラジカセの再生ボタンを押す。
流れ出したのは、最近お気に入りの「JUDY AND MARY」で、「ドキドキ」というタイトルだった。
このバンドのことを知ったのは実はつい最近で、朋子や古兼、後藤といったあたりのクラスメートが話題にしているところから興味を持ったのだが。
カラリとして力強いボーカルも、前向きになれそうな楽曲も、すぐに徹司にヒットしたのだった。
曲に合わせて鼻歌を歌いながら、徹司は、シーン12を開いた。
雷太と徳造が嵐の海に投げ出される場面である。
長いセリフが入るが、間違えるわけにはいかない。
徹司は、暗唱を始めた。
「気づいた時には、海の中だった。俺は必死に泳いで、海面に出た。右も左も上も下も真っ黒。しかし、遠くに白い点が見えた。徳造のジャンパーだ。徳造!俺は必死で泳いだ。白い点は見えたり見えなくなったり。なかなか近づかない。しかり、俺には約束がある」
ここで、語り役の人間から『徳造のことは任せておけ』のセリフが挟まれる。
徹司は、呼吸を整えた。
「何分泳いだか、わからない。俺の右手は徳造のジャンパーをつかんだ。徳造!頬を叩くと、目を開けた。泳げ、徳造!どっちが陸かわからんが、とにかく泳ぐんだ!」
ふう、と、徹司は軽く息をついた。
ここからは、徳造役のナオ……つまり朋子との二人芝居。
演技上の実力差が歴然と見えてしまっては、主役失格である。
徹司は目を閉じて、ぶつぶつと暗唱を続けた。
やがて、徳造は力尽き、雷太もまた意識を失う。
「目を開けると、俺は海の上に浮かんでいた。空は真っ青に晴れていた。嵐はとうの昔に過ぎ去ったのだ。俺は一人だった。徳造の姿はどこにもなかった。水平線まで見渡しても、ヤツの白いジャンパーはなかった。俺は泣いた。俺はヤツを死なせてしまった。俺も一緒に死にたかった。しかし、また死ねなかった」
やり場の無い悔しさや無念。
うまく表現するには、どうしたらいいのか。
考えながら、徹司は布団に寝転がった。